八月十五日(水) 

   東久邇稔彦  皇族。陸軍大将、軍事参議宮


    八月十五日の日記 永六輔監修 1995.06.07


 

 午前零時半ごろより三時まで、関東平野の各方面にB-29の空襲があり、また五時半ごろから七時四十分まで関東平野に艦載機の空襲があった。今日まで連日連夜、晴雨にかかわらず、わが本土のいずれかに空襲があって、国民は警報のサイレンの鳴りひびくごとに待避、爆撃、焼夷弾、銃撃、戦災、救護でビクビクしていた。

 とくに広島、長崎の原子爆弾以来、国民は非常に恐怖を感じながら、その日、その日をすごしていたが、今朝のが大東亜戦争最後の空襲となった。昨夕のラジオ放送で、十五日正午に重大放送があることを知らせ、今朝のラジオで、本日正午に天皇陛下ご自身で、一般国民に詔書を放送されるから謹聴するように、と知らせた。とくに昼間、送電のないところも送電するから、国内すべてのラジオ受信機を利用し、全国民が必ず謹聴するようにと付け加えて放送された。

 正午に、時報の後で、「今からラジオを通じて、天皇陛下が詔書を放送されるから、国民一同起立して玉音放送を拝聴するように《との放送があり、君が代が一回吹奏された。陛下御自身で詔書を放送された。はっきり聴くことができた。君が代がまた一回吹奏されて終った。

 私は直立して詔書の放送を聴きつつ、涙が出るのを止めることができなかった。

 わが国では天皇は国民とまったく隔てられ、外部からうかがい知ることができない。たまの行幸でも、近年は警戒が非常にやかましく、国民は遠くはなれて陛下を拝するほかはない。陛下の御言葉を一般国民は直接聴くことはまったくできない。天皇は生神さまとして、宮城内に祭りこまれていた。

 本日、国民はラジオで陛下の真の御言葉の詔書を聴いた。まったく破天荒のことだ。しかし、それは終戦の詔書である。国民は夢にも思わなかった敗戦、降伏による終戦をはじめて知ったので、今まで極度に緊張していた精神は急激にゆるみ、一時はまったくぼんやりして、放心虚脱状態となり、次いで、ある者は喜び、ある者は憤慨した。

 後刻、聞いたところによれば、陛下の御放送というので、衣朊を正して聴いた人が少くなかったとのことであるが、地方によっては雑音が多くて、よく聴きとれなかったそうだ。また、この御放送が最後の決戦を激励される詔書と思ったのに、終戦の御放送だったので大いに憤慨し、あれは敵の謀略宣伝だから信用できない、といった軍人もあったとのことである。これより先、知識階級の人や外国の事情に通じていた人の中には軍部の宣伝を信じないで、日本の将来を憂え、敗戦は止むを得ないようになるのではないか、と覚悟していた人もあったし、また、政府がポツダム宣言を受諾したとのうわさが一部に伝わって、今日のことを、あらかじめ知っていた人々もあった。私も、わが国がポツダム宣言を受諾したことを知っていた一人である。

 いずれにしても、国民一般は陛下の御放送を聴いた時、種々の感情と衝動に打たれ、感慨無量、私と同じように涙を止め得なかったと思う。ラジオはついで、内閣の告示を放送した。

 午後三時の放送によれば、十四日夜、阿南陸軍大臣は自決した。

 私は本日、わが国の前途を考えつつ、つぎの結論を得た。わが国は歴史上、未曾有の大国難に遭遇した。われらはいたずらに感情に激せず、自暴自棄に陥ず、冷静沈着に世界全般をひろく観察し、わが国敗戦の事実を深く認識し、その原因を研究し、忍び難きを忍んでこの国難を打開しなければ、日本は滅亡するだろう。明治維新当時の小日本に押し込められるわが国民は、今までの過失を今後の戒めとして心機一転、今よりただちに道義と文化の高き民主主義的平和国家としての新日本の建設に発足し、すみやかに戦争による被害を回復しよう。戦争はもうこりごりした。今後は軍備の全廃、戦争の絶滅、世界の平和、人類の幸福に貢献しようとする人類最高の使徒の先駆者となって、努力しようではないか。

 午後、本邸より電話で、「松平内大臣秘書官長が本日中にぜひ会いたい《といってきた。午後八時過ぎ、松平に川崎別荘で面会。その話の概要。

 「阿南陸軍大臣が自決した結果、鈴木首相は本日内閣総辞職を決し、各大臣の辞表を陛下に奉呈した。木戸内大臣の伝言として、いま重臣には軍部を抑える力はなく、また、表面に出る気力も意思もまったくない。いままでは、重臣会議で、後継内閣の総理を推薦したが、今度は重臣会議は聞かれないことになった。天皇陛下は時局を非常に心配され、陛下のご内意は、鈴木内閣の後継を東久邇宮になさるお考えである《

 なお、松平秘書官長の話によれば、昨十四日夜、近衛師団の一部が宮城内に侵入して宮内省を占領し、天皇陛下御放送の録音盤を奪おうとしたが、目的を達せず、事件はひとまず鎮静し、両陛下はご安泰であると。

 私は「昨夕話したように、総理就任のことはできるならばお断りしたい考えであるがこの危機を突破しようという人がなく、また、一般情勢がそんなに危険ならば考え直しましょう《と答えた。

 さらに松平は、「もし組閣の大命が下ったならば、だれを相談相手に選ぶか《とたずねたので、「私は政治にはまったくしろうとだから、その時は近衛公を相談相手としたい《と答えておいた。松平は「そうなるかも知れないと考えて、木戸内大臣から近衛公に、ここしばらく東京から遠くに行かないように話してある《といって、九時半帰った。



   註1 B-29 ボーイングB29スーパー・フォートレス。米陸軍重爆撃機。
   註2 宮城 皇居の旧称。
   註3 ポツダム宣言 一九四五年七月、アメリカ、イギリス、中国(のちにソ連参加)の主要連合国が、日本に降伏の機会を与える条件として発した共同宣言。
   註4 内大臣 一八八五年の内閣制度創設時に宮中に設けられた重職。天皇の側近に奉仕して輔弼(君主の政治を肋けること)の任にあたり、皇室、国家の事務をつかさどった。一九四五年廃止。終戦時の秘書官長は松平康昌、侯爵、貴族院議員。
   註5 木戸幸一 侯爵、貴族院議員。
   註6 重臣 昭和の初めより終戦まで、首相経験者、枢密院議長など天皇側近の重職者に用いられた称呼であるが、特に「重臣《と呼ぶ官制上の職があったわけではない。
   註7 宮内省 天皇、皇室の一切の事務をつかさごった役所。T几四七年官内府、四九年宮内庁と改称。
   註8 近衛文麿 公爵、貴族院議員、元首相。