人はどうして老いるのか*遺伝子のたくらみ

   「無《でなく、確固として生きている

   日高 敏隆 著(朝日文庫・670円)
   村上 陽一郎 評

      2017.03.05 毎日新聞




 文庫本ではあるが、日本人男性の平均余命に達した人間が、こうしたタイトルの書物を開くのは、確かに僅かながら勇気が要る。本書は、老いる、と加齢の区別に始まって、まずは動物は「老いない《あるいは「老いた《動物はいない、というテーゼを出発点にする。「え?《と訝しく思う方もおられようが、日高さんは「老いる《は「死《を前提にした概念である、と定義するから、自然にそうなる。通常動物は「老いた《ら、即「死ぬ《のである。だから、自然界で「老いた《動物に出会うことは普通ないのである。そのことを前提にした次の言葉に凝然としない読者は、至って若いか、想像力が欠如しているからだろう。「十分に老いているのに死なない人もたくさんいる。それをわれわれは高齢化社会と呼んでいる《

 「老いた《動物は自然界には存在しないと書いた。そんなはずはない、我が家のイヌは、ネコは、と直ちに反論があろう。日高さんもペットは別だという。野生動物が日夜生命を賭してそのために闘う食料と安全な生活は、初めから「与えられた状態《にあるのがペットである。ペットは使役のため、あるいは肉や卵を得るために飼われる家畜とも違って、その存在自体が人間にとって価値があると見なされる。

 そこまで来ると、人間は人間にとってペットと酷似した存在ということになる。人間は、その存在自体に価値がある、というのがヒューマニズムの原則であるとすれば、まさしく人間は、自身を「ペット化《して見ている、ということに等しい。「老い《やその到達点としての「死《の自覚は、そこに始まる、と日高さんは見る。「死《は、存在自体が持つ価値の喪失であり、「老い《はぞれへ向かう過程として認識されるからである。

 一面から見れば、極めて即物的にも見える、このような日高さんの議論だが、途中で、生命現象一般の解説が挟まれる。とくにヴアイスマンに始まり、ドーキンスに極限を見る生殖質保続説、後者の場合は「利己的遺伝子《論の解説は、実例を交えて実に魅力的に展開される。そこで起こる当然の疑問、遺伝子が自己の保続を最優先にした戦略を内蔵するのであれば、有性生殖は矛盾ではないか、という疑問に対する解決も、見事というほかはない。

 そうした議論を経て、再び「老い《と「死《に筆先が向かうとき、日高さんは、科学者らしく、「死ねばすべては無である《という結論を正面から読者に突きつける。仮に、自分の著作に価値があって、全集が刊行されたり、死後二百年祭が敢行されたりしたとしても、自分にとっては何の意味もない、日高さんはそう割り切る。日々をささやかなりとも満足感を得ながら生きている、それだけで人生の意味は十分達せられるのではないか。

 読みながら、そしていちいち共感しながら、しかし、日高さん、ちょっと待って、と思った。日高さんが亡くなって十年近く経つ。でも、誰も読まない「全集《や「著作集《ではなく、未発表の原稿が文庫本になり、こうして旧版の書物も新刊として文庫化されて絶えることがないという事態は、人気作家ならいざしらず、現在の読書界では異例に属する(旧版は講談社から単行本『プログラムとしての老い』として一九九七年に刊行された)。

 つまり、日高さんは決して「無《などになったのではなく、私たちのなかに、確固として生きている。そのことを伝えたいのだけれど、やっぱり聞こえないかしら。