「オウム全死刑囚の執行終了《人びとはこれを望んだのか 

   気づかざる荒みと未来

   辺見 庸


    2018.08.08 北陸中日新聞夕刊
辺見庸
 へんみ・よう 1944年生まれ。作家。相模原障害者施設殺傷事件に想を得た小説『月』を今秋刊行予定。

 さながら古代である。計十三人の処刑が終わつた。紀元前十八世紀のハンムラビ法典の言葉が胸をよぎる。「目には目を、歯には歯を《。石を噛むようなおもいがいつまでも消えない。わたしたちはこれを真に望んだのだろうか。七月のうちに慌ただしく十三人の命をうばったことで、どんな未来が拓けるというのだろう。これが民主主義だろうか。いや、これは大いなる過誤ではないのか…。

 どうしても忘れえない顔がある。〝決壊”れした顔だ。久しい前、拘置所がよいをしたことがある。接見ブースの透明アクリル板ごしに確定死刑囚と二十分ほどの面会をしていたとき、つきそってきた中年の刑務官の表情が俄然くずれた。いかめしかった顔が、ある瞬間に紅潮し、目がうるみ、涙がふくらみ、唇と口角が細かにふるえだしたのだった。あわてた。処刑が近いのだとおもった。

 報道はじつに無機質に「死刑が執行された《とのみいう。処刑の実行主体がだれであり、死刑囚がどのように死にいたらしめられ、そのときどんな声と音とにおいが生じたか。刑場の空気はどう変わったか、苦悶のはてに何分で絶命したか…伝えはしない。処刑の種別(絞首刑か銃殺か)さえ、なぜかいわない。まるで〝ノーバディ(だれでもないもの)″が、パソコン画面上の上要な映像をいくつか削除しただけ、とでもいうように。風景をどこまでも抽象化する。消音、消臭する。

 しかし、刑務官は知っている。死刑執行とは、ノーバデイではなく、特定の生きた人間身体が、おなじく生きた人間身体を、どんなにはげしい抵抗をも実力で制圧して、絞縄を首にかけ、重力を利用して刑場の階下の宙に落下させ、頸骨を砕き、縫死せしめること。すなわち、他者身体にたいする自己身体による堪えがたいほどに具象的な殺人行為であることを、みずから体験するか見聞するかしている。

 表情がはからずも〝決壊″してしまった刑務官も、生体の強制的死体化をまのあたりにした経験があったにちがいない。アクリル板ごしにわたしと話す死刑囚のきたるべき身体的変化を想像して、かれはおもわずパニックにおちいるか感情失禁をきたしたのではなかろうか。だとすれば、それは人としてごくまっとうな、尊いともいえる反応である。わたしはそうおもっている。

 死刑の執行とは、美しい観念や崇高な思想の実践ではない。いくら改心しようが生きたがっていようが、一切問答無用の、リアルな生身の抹殺である。言葉と声、身体の公的な抹消*そのような行為を、わたしたちはそれぞれの実存を賭して、わが手を汚してやっているのではない。刑務官にやらせているのであるかわれわれはもっと狼狽し、傷つき、苦悩すべきなのだ。

 もう十年以上たつだろうか。かつてしばしばもちいた言葉をつかうのをかんぜんにやめにした。「人間的《という形容動詞である。「行動や考えに、人間として当然あるべき感情の感じられるさま。人間らしい配慮や思いやりのあるさま《というのが、「人間的《ふるまいにかんする辞書の説明である。では、処刑は「人間的《か。それとも「非人間的《なのか。

 十年前ならためらいなくいえたことが、いまはいうそばからなにか濡れた縄のように重くズルズルとまとわりついてくるものがある。なんなのだろう、これは。なぜなのだろうか。わたしにはひとつのすっとんきょうな仮説がある。人間はひょっとすると「人間的《であることを、とうに放棄したのではないか。

 七月六日の第一回大量処刑の前夜、首相や法相、防衛相らが「赤坂自民亭《と称して衆議院議員宿舎内でにぎやかな宴会を開いていた。法相はすでに死刑執行命令書に署吊しており、翌朝には死刑が執行されることを知っていながら、万歳三唱の音頭とりをしたとも伝えられる。豪雨被害がでているのになにごとか。非難の声があがった。当然である。わたしはさらに、翌朝に七人の処刑をひかえながら笑いさんざめく大臣たちの心性がわからない。というより、おさえてもおさえても、軽べつの念が去らない。

 人はここまで荒むことができるものか。死刑反対、賛成の別なく、人命にたいする畏れとつつしみをなくしたら、人間はもはや「人間的《たりえない。オウム真理教というカルトは、人命への畏れを欠くことにより、国家悪を一歩も乗りこえることができず、奇形の「国家内国家《として滅んだ。その「ポア《の思想は、国家による死刑のそれと劃然とことなるようでいて、非人間性においてかさなるところがある。上からの指示の忠実な実行、組織妄信、個人の摩滅、指導者崇拝という点でも、オウムは脱俗ではなく、むしろ世俗的だったのであり、われわれの〝分身〃であったともいえる。

 しかとはそれと感じられないほどのわずかな差で、目下、なにかが徐々に変わりつつある。しかし、未来像は上明だ。それが怖ろしい。七人の処刑も、第二回の六人の処刑も、はげしい議論をまきおこしたわけではない。古語をもちいれば、「世のなりまかるさま《に、われわれはあまりにも無力であり、他人ごとのように眺め、おどろくべきことには、抵抗どころか、あらかじめあきらめと空しささえ感じているようだ。往時は多少なりとも意識された「黄金律《も、「世のなりまかる《勢いのなかで、冬の薄れ日のように衰えている。

 かんたんな道理がとおらなくなってきた。たとえば「人にしてもらいたいと思うことはなんでも、あなたがたも人にしなさい《(新約聖書「マタイによる福音書《)あるいはその逆の「己の欲せざるところ、人に施すことなかれ《(『論語』)といったあたりまえの黄金律も乱暴に無視されることが多い。このたびの死刑もそうだ。わたしはこれをまったく望まなかった。望まないにもかかわらず、強行された。

 がんぜない子どものようになって、問いつづけるほかない。なぜ殺すのか。「確定死刑囚《とはなにか。確定とはなにか。かれらは人間ではないのか。人間なのに人権はないのか。それは古代ローマ法にいう「ホモ・サケル《とどうちがうのか。いっさいの権利をうばわれた「剥きだしの生《と、いったいどのようにことなるのか。答えられないのに、議論もせず、殺すことがなぜ赦されるのか。

 村上春樹氏の意見にわたしは反対する。氏は書いた。「丸一年かけて地下鉄サリン・ガスの被害者や、亡くなられた方の遺族をインタビューし、その人々の味わわれた悲しみや苦しみ、感じておられる怒りを実際に目の前にしてきた僕としては、『私は死刑制度には反対です』とは、少なくともこの件に関しては、簡単には公言できないでいる。『この犯人はとても赦すことができない。一刻も早く死刑を執行してほしい』という一部遺族の気持ちは、痛いほど伝わってくる《(七月一十九日付毎日新聞)

 死刑制度賛成派は、これにどれほど勇気づけられたことか。被害者感情と死刑制度は、ひとつの風景にすんなりおさまるようにみえて、そのじつ異次元切問題である。前者の魂は、後者の殺人によって本質的に救われはしない。わたしは死刑制度に反対である。それは究極の頑廃だからだ。