23.ニッボンという病 

   辺見 庸


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 父をけっしてわるく言いたいのではない。なにごとにつけたちまわりの下手だった父が、たちまわりの巧みさと変わり身の早さがなにより大事にされた敗戦後のながれにうまくのることができなかったことを、わたしはむしろこのましくおもっている。生前の父は戦争の景色について多くをかたらなかったけれど、なんにせよ戦争の生き証人ではあった。父にはひとつのからだに同居してはならないもの、共存できないとされているものが、はしなくも同居していた。

父はよかれあしかれニッポンであった。言ってみれば、それは「春よ来い《と軍歌の同居にも似ていた。いたいけなものを愛でるかとおもえば、強者に卑屈なところもあった気がする。慈悲と獣性、静謹と咆哮、慰撫と殴打、屈従と倣岸、沈黙と餞舌、繊細と鈊感・・・・が、こすれあいながら、いごこちわるく同居していた。それをかんたんに戦争のせいだとは言いたくない。

そう図式的には結論づけたくはない、ぐずぐずした気持ちがわたしにはまだつづいている。父固有の人格がまずあって、それが「皇軍《の侵略戦争のなかでいっそうゆがみ、きわだったのだろう、ともおもう。それでもナゾはいくらでものこる。おもえば、戦後というのは戦前、戦中とおなじくナゾだらけだ。侵略戦争の最高責任者を、ニッポンという国のひとびとはけっしてみずから責問し、みずからの手で裁こうとはしなかった。なぜなのか。おかしい。じつに奇妙である。社会学的にも、歴史心理学的見地からも、精神病理学的にもおかしい。

ニッポンは、侵略し、殺し、姦し、奪い、破壊しつくした国のひとびとに、とおりいっペんの詫びをいれたのみで、原爆を投下した国にはひたすらどこまでも卑屈にすりよっていった。ニッポンのひとびとは被爆者らをいちじは差別までした。天皇ヒロヒトの広島「巡幸《(一九四七年十二月)を被爆地では熱狂的に歓迎した。かれが原爆ドームのみえる広場のお立ち台にすがたをみせると、群衆は地鳴りのような歓声をあげた。いま、ニュース映像でみると、その異様なまでの熱狂ぶりは、憲法公布記念祝賀都民大会(同年五月)のよそよそしさとくらべ、あまりにも対照的である。元大元帥陛下=昭和天皇はその後、原爆投下について「遺憾には思ってますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思っています《(傍点青色は辺見。一九七五年、十月三十一日、日本記者クラブ主催「昭和天皇公式記者会見《)とかたる。わたしは唖然とした。だが、ニッポンはそうじてとくにがく然とも唖然ともせず、怒りもしなかったのだ。ニッポンはその後も、原爆をまるで「自然災害《のごとくにかたり、みずからの侵略責任と相殺するかのように、原爆投下の責任を米国に問うことはなかった。父は昭和天皇の誕生日には玄関のまえにかならずヒノマルをかかげりた。わたしはそれを制止したことがない。