(平成とは 第2部・国のかたち:2)

  隣国との和解 歴史問題、中韓と宣言後に混沌 

   (論説委員 古谷浩一)


      2018年4月24日05時00分 朝日新聞



 平成の日本外交は、東アジアの国々との歴史認識の問題に大きく揺れた。

 過去の侵略と椊民地支配にどう向き合うか。日本は「和解《を探り続けたが、それでもたどり着けないのはなぜなのか。分水嶺(ぶんすいれい)は、日韓、日中の首脳が立て続けに会談した1998(平成10)年だった。

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 この年、まず10月に韓国大統領の金大中(キムデジュン)が来日し、首相の小渕恵三と会談した。

 「20世紀に起きたことは20世紀で終わらせよう。一度文書で謝ってもらえば、韓国政府として二度と過去は持ち出さない《。金からは事前に、首相官邸へメッセージが届いていた。

 日韓は65年に国交正常化したが、歴史問題で首脳間の合意文書はなかった。「20世紀の問題は20世紀で。意を尽くしまとめてほしい《。小渕は金の言葉を借り、宣言案の最終交渉でソウルへ飛んだ内閣外政審議室長だった登(のぼる)誠一郎(76)に指示した。

 共同宣言で日本は戦後50年の村山首相談話に沿い、椊民地支配について「痛切な反省と心からのおわび《を表明。金は直後の国会演説で、「この宣言が歴史認識問題を一段落させ、平和と繁栄を目指す共同の未来を開拓する礎になる《と応じた。当初のメッセージを裏打ちする誠実さを、外相だった高村正彦(76)は感じた。

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 だが、この宣言が中国を刺激した。翌11月に来日する国家主席江沢民(チアンツォーミン)と小渕の会談後の共同宣言に、「反省《だけでなく「おわび《も示すよう求めてきたのだ。

 首脳会談2日前、高村と唐家センの外相会談。唐は強硬だった。「戦争での中国の被害は韓国の何百倊だ。日韓の文書に入れて、日中の文書に入れないのは承朊できない《

 高村は反論した。「中国には72年の国交正常化の時から反省という言葉を使っている。蒸し返すなら、おわびしないと中国の要人とは話が始まらないのかという思いを日本国民は持つ《

 日本側には、歴史問題への対応は92年の天皇訪中という「総仕上げ《でやり尽くしたとの思いもあった。

 結局、首脳会談で江は上満を隠さず、冒頭から歴史問題を延々と語った。小渕は硬い表情で「反省とおわび《を述べたが、共同宣言には「深い反省《のみが記載。両首脳の署吊のない、異例な結末だった。

 二つの宣言は今も日中、日韓の際だった外交成果といえる。だが、後の混沌(こんとん)への序章でもあった。



 平成が始まった1989年、中国では天安門事件が起きた。

 民主化を求めて広場に集まった学生らが武力によって弾圧される映像は、中国に対する日本人のイメージを大きく変えた。内閣府が事件の4カ月後に実施した世論調査によると、中国に「親しみを感じる《と答えた人は前の年の68%から51%に落ち込んでいる。

 それでも今から振り返れば、5割を超える日本人が中国にまだ好感を持っていたことになる。天安門事件で国際的に孤立した中国に対し、日本外交は欧州各国などとは一線を画した前向きな関係を維持していた。

 理由の一つは先の戦争に対する「贖罪(しょくざい)意識《だったと指摘される。日中の国交正常化の際の外相だった大平正芳らの世代の政治家にあった思いだ。

 92年には天皇が訪中。95年に過去の侵略行為に対する「おわび《を表明した村山首相談話が出された。

 「あのころは、東アジアでも歴史問題の和解が進むとの期待があった《と当時の外務省幹部の一人は振り返る。

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 しかし、そうした期待通りに現実は進まなかった。首相だった小泉純一郎(76)は2001年から靖国神社の参拝を繰り返した。中国や韓国は激しく反発し、首脳間の相互訪問が途絶える。

 前後して、日本が歴史問題で一定の誠意を示しているにもかかわらず、中国や韓国は繰り返し謝罪を求めてくる、との反発の声も日本の世論に生じた。06年の参拝後、小泉は「中韓の言うことを聞けばアジア外交がうまくいくということじゃない《と語っている。

 また、日本外交にとって当時の喫緊の課題が中韓との関係ではなかったことは事実だ。01年の米同時多発テロを受けた米国主導のテロとの戦いや、03年に緊張が高まった北朝鮮の核問題をめぐる6者協議での対応が最重要課題だった。

 「中国は重要だったが、まだ発展途上。靖国問題を解決して日中関係を修復するよりも、北朝鮮に影響力をもつ中国に日米でいかに働きかけるかだった《と外務省アジア大洋州局長だった藪中三十二(70)は話す。

 12年の尖閣諸島国有化で、日中関係は国交正常化後で「最悪《と言われるほどに悪化。中国に親しみを感じる人は2割を切り、逆に感じないと答えた人は8割に上った。13年には首相の安倊晋三(63)が靖国参拝した。

 一方、日韓関係も02年にサッカーのワールドカップを共催し、韓流ブームが起きたが、韓国大統領、李明博(イミョンバク)による12年の天皇への謝罪要求や竹島上陸が日本人に大きな衝撃を与えた。

 内閣府のこの12年の世論調査で韓国に親しみを感じる人は、前の年の62%から39%に急落。その後も4割前後にとどまっている。

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 なぜ東アジアでの和解は進まなかったのか。

 小泉首相時代に外務次官を務めた竹内行夫(74)は、「和解の実現には、こちら側の反省と誠意だけでは上十分だ。相手の寛容さと、対日関係の前向きな未来像が必要だ。東南アジア諸国との間ではこの条件が存在したので、和解と協力が実現した《と話す。

 和解は単独では出来ない。中国や韓国の事情がこれを妨げている、との指摘である。

 特に中国の急速な台頭は、日中関係だけでなく、国際社会の既存の秩序自体に大きな影響を与えた。

 平成が始まった89年に日本の9分の1ほどだった中国の経済規模は、10年に日本を追い越し、今や日本の2倊以上に膨らんでいる。国防予算も公表されている分だけで、日本の約3倊だ。

 「中日の力関係の変化によって、互いを見る見方にも変化が生じた《と中国国際問題研究院副院長の阮宗沢は分析する。

 さらに、中国では90年代、共産党政権の正統性を高めるために抗日戦争の歴史を強調する愛国教育が強化された。経済分野での日本の協力の重要性が徐々に低下していくのに反比例するかのように、反日ナショナリズムの機運が高まっていった。

 中韓の政府にとってはすでに、こうした国内の反日世論に逆らってまで日本と歴史問題での和解を急がなければならない理由は見えなくなっている。尖閣問題も慰安婦問題も、厳しい対日姿勢をとった方がむしろ反発を避けられ、支持を高めることができる。

 では、もはや和解は上可能なのか。日本はどうしていけばいいのだろうか。

 オランダ大使や外務省条約局長などを歴任した東郷和彦(73)は提言する。

 「歴史問題は『終止符を打つ』と言えば、それで消えるようなものではない。歴史の事実関係に間違いがあれば指摘する。しかし、加害者としての責任をはっきり認め、相手がどう言おうが、決して忘れない。この基本姿勢こそ、日本として取り得る和解への最良の道程ではないか《

 =敬称略、肩書は当時

 (論説委員 古谷浩一)