自由・平等・福祉の論じ方
  生物的性差基礎知識に
 

   長谷川眞理子 総合研究大学院大教授


      2016.12.11 毎日新聞


 クジャクというと、普通は誰もが雄のクジヤクを思い浮かべるだろう。そう、あの美しい長い飾り羽を広げた姿である。もしかすると、雌のクジャクがどんな姿をしているか、思い描けない人さえおられるかもしれない。雌には派手な飾り羽はなく、全体の色も地味である。

 雄のクジャクの飾り羽は雌に対する求愛のディスプレーのためだけのものだ。それ以外の意味はない。雌はあんな羽なしでも十分に生きていけるのだから、「生きる《という意味での機能はないのである。配偶の季節になると、雄は朝から晩まで羽を広げて震わせ、雌を誘う。本物の雌が目の前に来たのではなく、スーパーの袋が風に飛ばされて来ただけでも、それに対して羽を震わせる。強い風が吹くと、おっとっとと倒れそうになりながらも、ディスプレーを続ける。

 雌は、そんな雄たちを横目で見ながら餌をついばみ、ほとんどの雄の努力を無視する。配偶すると決めたら、意中の雄のところに一直線。あとはひとりで卵を産んで、ひとりでヒナを育てる。父親である雄とのつきあいなど一切なく、雄も、「父親《という感覚とは全く無縁だ。ニホンザルの群れには「ボス《という雄ザルがいて、この雄ザルが群れを取り仕切っていると、よく言われる。しかし、本当のところ、ニホンザルの集団の核は雌たちであり、おとなの雄は、いろいろなところからやってきた寄せ集めだ。群れで生まれ育った雌たちのグループが受け入れてくれる限りはよいが、そうでもなくなると、雄たちはまた群れを出てどこかに行ってしまう。雄とは、そんな流浪の存在である。

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 私は長らく、いろいろな動物の野生状態における配偶と繁殖の行動を研究してきた。ニホンザル、チンパンジー、シカ、ヒツジ、クジャク。私の研究対象は大型の脊椎動物ばかりだが、小さな無脊椎動物についても、雄と雌の区別がある動物の行動については、常に広く研究結果を把握してきた。そうして思うのは、雄と雌とは、種は同じであっても、全く異なる戦略の動物だということである。

 私の世代のフェミニストたちは、普通、シモーヌ・ド・ボーボワールの「第二の性《を出発点とし、この書をフェミニズムの一種の「聖典《としてきた。しかし、学部の3年生から野生ニホンザルの繁殖行動を観察してきた私には、一方で、おおいに共感する論点はあるものの、なんともぬぐい去ることのできない違和感も持った。

 生物が増えていくには自分自身を分裂させればよいので、雄と雌はいらない。そのようにして雌雄の区別なしで増えることを無性生殖と呼ぶ。これが原初の姿であった。それが、栄養をたっぷり持っているが、数は少ない「卵《というものを生産する個体と、栄養は全くなく、速く動き、短命だが数だけは膨大にある「精子《というものを生産する個体とに分かれた時、有性生殖が始まった。前者が雌で後者が雄である。

 しかし、受精のためには卵も精子も一つずつしかいらないので、数にアンバランスが生じた。精子は、卵をめがけて競争し、卵は最適な精子を選抜する。そこで、大量に余っている精子を生産する雄と、栄養をたっぷり与えた少数の卵を生産する雌とでは、とるべき最適戦略が異なるのである。だから、雄と雌はあらゆる面で異なってくる。

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 ヒトも有性生殖生物の一員なので、10億年余りという有性生殖の進化史を背負っている。それを無視して、ここ数百年の文化的なジェンダー概念だけで男女差別などを論じることに、私は生物学者として違和感を覚えるのだ。男と女は決して同じ存在ではない。生物学的な違いとその存在理由を理解することは、男女の平等や働き方や子育て支援政策などを考える上で、基本的な知識であると思う。

 ヒトにはヒトの進化史があり、男と女がおかれてきた繁殖の環境は、クジャクともチンパンジーとも異なる。だから、ヒトの進化史における男と女のあり方を知らねばならない。一方、ヒトは「自由《や「平等《や「福祉《といった抽象概念を価値あるものと考えて社会を作ってきた。これらを尊重しようとするなら、生物的存在としての性差を知った上で、それらの実現をめざす方策を考えるべきだと思うのである。