「それぞれの戦後70年《 

   『オランダ・ハーグより』特別編

   春 具


      2015.05.15



   2015年は第二次世界大戦から70年を経た節目の年である。欧州の終戦は太平洋戦争より三ヶ月ほどはやい、5月であります。戦争は一律同日に終わったわけではなく、オランダの解放記念日は5日、フランスは8日、イギリスは戦勝記念日で、ロシア(当時はソヴィエトでありましたね)とおなじく9日という具合であります。同じように戦争に巻き込まれながらも、終戦体験が異なることで、欧州の国々の記憶と感慨は微妙に違っている。その記憶・感慨は戦後の国づくりや地域協力のあり方にもインパクトを与えてきたようであります。そこで今回の拙稿は、いつもでたっても過ぎ去ろうとしない過去を、彼らがそれぞれどのように見据えてきたのか、その検証を試みようという趣旨であります。もちろん、欧州すべてを網羅するのは上可能であるから、身近なところから論じましょう。

   わたくしの住むオランダは、ドイツのポーランド侵攻の一週間後にドイツの侵略をうけ、ろくに抵抗する間もなく占領されてしまった。それから5年間、彼らはナチス軍政のもとにあって、辛惨を舐めた。解放された日は5月5日なので、この日は5年に一度「国民の祭日《とされる。今年は70年という節目の祭日であったが、前日4日は戦死者を弔う「メモリアルデイ《で、多くの家庭に半旗が掲げられていた。そして翌日にはその旗がずりあがって、解放記念の旗日となった。

   国のあちこちで式典がおこなわれたが、それらはどれも地味で、けっして国を挙げての大騒ぎでなかったところが興味深かった。

   静かな祝典にはいろいろな理由が考えられるだろうが、戦時中のオランダ人がドイツ軍支配下でそれぞれに異なった対応をしたことがあるでしょう。まず、占領と同時に政府はイギリスへ逃げ、王室はカナダへ避難した。残されたひとびとは占領に対して三とおりの対応をした。第一はドイツ軍を無視し、いままでどおりにふつうの生活を営もうと努めたひとたち。第二はドイツの勝利を信じ、積極的にドイツの手伝いをしたひとたち。同胞をドイツに通報したり、ユダヤ人の収容所への輸送に手を貸したり、ドイツ兵に媚を売って財を築いたもの、などなど、ナチスの手先となって働いたオランダ人は少なくなかったのであります。

   そして第三は地下に潜ってファシズムへの抵抗を試みたひとびとであります。

   さらに、オランダはインドネシアにもっていた椊民地を日本軍に蹴散らされ、椊民者たちも俘虜とされて終戦まで収容されたのである。男性俘虜のなかにはビルマに連れていかれて鉄道建設に狩り出され、そこで命を落としたひとたちも多くいる。さらに、彼らの帰国はオランダにおいて政治的に複雑な波風を立てた。俘虜生活から帰還したひとびとは、「わたしたちがドイツ占領下で苦しい生活をしていたとき、あなたがたは南国の太陽のもとでのうのうと暮らしていた《とあらぬ誤解に痛めつけられたのでした。彼らがながいあいだ日本と日本人を許すことなくきつい思いを抱いたのはそういう事情も加わっていたのであります。

   オランダの戦後復興は、そのような戦時の対応がすべてひっくり返ってしまった所からはじまったせいで、複雑な進展を遂げてきたと言える。まず復讐がおこなわれ、ドイツに寄り添ったひとびとはリンチにあったり村八分にあったり、いたたまれなくなってドイツ側へ逃げたりした。そういう無政府状態がやっと終わってから、国つくりがはじまったのであります。70年たった今でも、そういう家族の歴史が、彼らの生活に微妙な影を落としているのだ。

   もっとも、無政府状態はヨーロッパ諸国のどこにも見られた景色であって、戦後すぐの欧州ではどこへ行っても瓦礫の中で復讐が行われていた。あまりの残忍さに、アメリカは警察能力が復活するまでマーシャル・プランの実施を見合わせたくらいであったのであります。

   西ヨーロッパのまん中にあって、戦時中に中立を維持した国はふたつある。ひとつはスイス。もうひとつはスペイン。スイスについては中立を標榜しながら連合国枢軸国双方を手玉に取って利潤をあげたことは知られているが、スペインは中立のために国民がいらざる苦痛を経験することがなかった、それはフランコのおかげだと、そのことを喜ぶスペイン人はいまでも多いのであります。国連時代、スペイン語の通訳をしていた同僚はフランコ派で、聞いて見ると、彼女のようにファシズムよりも共産主義のほうを嫌っていたスペイン人も多くいたのであります。わたしたちはヘミングウェーとかロバート・キャパとかが市民戦争のときにカッコ良く共和政府側に志願したことで、ほとんど自動的にフランコを悪役呼ばわりしてきたけれど、他方で共和制(と言うも、じつはソヴィエトの支援をうけた左翼政権)を受け入れ難かったスペイン人も多くいたのであります。フランシスコ・アヤラが書いた『タホ川』という短編があるが、この話は、共和国側の兵士の遺品を届けに来た主人公にむかって、遺族が「こんなものをもらって、あなたはわたしにどうしろとおっしゃるの?社会主義社の身分証を家においておけって仰るのね。おあいにくさま《と叫び返して終わるのであった。(『フランシスコ・アヤラ『仔羊の頭』所有)。

   そのフランコは、第二次世界大戦においては、連合国と取引をして、中立を維持した。なのでこの友人は、フランコのおかげで彼女の国は共産国の悲惨と暴力を経験せずにすんだのだ、とまで言う。フランコの独裁制は、その弊害はちいさくはなかったけれど、ありがたいと思っているスペイン人も少なくないのであります。

   ところで、わたくしは5月のはじめにイギリスにいたのであるが、かの地では7日に総選挙が行われました。結果はメディアの予想を裏切って、キャメロン氏率いる保守党が圧倒的勝利をとげた。彼らの勝利を正確に予言・予知したのは、わたくしの知るかぎりでは学者でも評論家でもニュースキャスターでもなく、『 BetFair 』というノミ屋であった。こう言っちゃあなんですが、学者や評論家はなにを言ってもオカネを失うことはないからね、ノミ屋は巨額の賭け金がかかっているから予想は真剣で、その分信頼に足りるのであります。覚えておかれるとよろしい。ついでですが、イギリスでは賭博の収益は無税であります。そのことも覚えておかれるとよろしいか。

   議会を独占したキャメロン首相はさっそく組閣をはじめたが、もうこれまでのような連立の必要がないから足枷はありませんね。国家の安全に関して驚くべき早さでもって戦略を打ち出した。彼らにとって目前の敵は、ISISをはじめとする原理主義的テロリストたち、そして極右のネオナチであるということです。彼らこそが自由と民主主義の敵なのだから、というのであります。

   彼らのヴァリューは明快であります。わたくしが他国の首相であるキャメロン氏を誉めたたえる必要はないのだけれど、その姿勢は開戦当時のウィンストン・チャーチルの姿勢によく似ている。今年の終戦式典において、ウィンストン・チャーチルの孫であるランドルフ・チャーチル氏が式辞を述べ、「あの戦争は自由と民主主義を守るための戦いであった。あれに勝利し、70年経った今、世界に民主主義と自由がひろまっているのをみたら、祖父はさぞかし満足していることだろう・・・《と言っていた。ヨーロッパの価値観はじつに明快、デモクラシー、リバティーなのであります。すべては(平和も戦争も)そこからはじまるのだ。

   それゆえに、日本とヨーロッパの戦争認識のおおきな違いは、彼ら(とくに英米)は「自由と民主主義のために戦い、勝った《と思っていることだと思います。わたくしはかつて、ベルギーのフランダースで、第一次世界大戦の戦勝記念日の式典に参列したことがあるが、100歳にちかい老兵が「自由を守ることができてよかった《と言ったあと、「もういちど自由が脅かされるなら、わたしはまた武器を持って戦う《と言っていたのが印象的でありました。

   価値観がはっきりした戦争はたしかに戦いやすいでしょう。英米は出兵するときに、かならずリバティ、デモクラシーをスローガンにして軍をおくる。だが、それは政府のかけ声であり、戦争がはじまると、やはり国民は巻き込まれたくないと思い、さらにじぶんだけでも生きのびようとする。そのために、だれもが生きる術を考えて対応をする。権力にすり寄るとか、抵抗するとか、無関心を決め込もうとするとか・・・、すなわち、わたくしたちはだれもオランダ人のような対応をするのではないか。

   映画監督伊丹万作の書いたものに、こんなものがあります:「戦争がはじまってから国民はただ自国の勝つことしか望みはしなかった。国が破れることはじぶんも家族も死に絶えることだと思ったからである。戦後になって、多くの国民がじぶんたちはだまされていたと言いはじめた。反面、じつはおれがだましたんだというものはひとりもいなかった。・・・ だが、ほんとうはだましていたひとのほうがだまされていたひとの数よりずっと多かったのではないか。新聞報道、ラジオ、町会、隣組、警防団、婦人会・・・はみんな熱心にだます側に協力していたのではなかったか。戦争を通じてだれが一番直接にわれわれを圧迫し続けたかと言うと、だれもの記憶に甦ってくるのは、近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり。郊外の百姓の顔であり、区役所、郵便局、交通機関の小役人や雇員や労働者、学校の先生といった日常生活を営む上で否が応でも接触しなければならない身近なひとびとであったのだ・・・。《村上編集長の書いたものにも、日本が勝ちまくっていた頃、・・・毎日のように提灯行列をしていた日本人は、戦後になると「そのことはみんなで決めたんだから、わたしひとりを責められても困る・・・《と言いはじめたという趣旨の文があった(『地上げ屋』「村上龍文学的エッセイ集《所有)。おなじことだと、わたくしは思う。

   日本は自由のために戦ったわけでもなく、世界の民主化を標榜したわけでもなく、ましてや、自由主義・民主主義をひろめるために中国大陸・アジアへでていったわけではない(石油が足りないという即物的な理由で戦争をはじめたのではなかったっけ)。さらに悪いことに負けてしまったので、アメリカからもらった自由がどういうものであるか、なかなか理解しにくいのだと思います。マッカーサーは「日本を極東のスイスにする《と言いましたが、そのスイスだってハプスブルグ家と戦って独立と自由を達成したわけで、そのように血を流して勝ち得たものは、血を流すことなく天から降ってきた自由とは違うのではないかと思います。そのことはいま自由や人権を論じるときに、わたくしたちの抱えるハンディキャップでありましょう。

   わたくしが今年のはじめに書いた『わたしはシャルリ、きみは?』という一文をみなさんは覚えておられようか?(忘れちゃった?)あれをある大学の先生が憲法の教材に使ってくださったことがありました。そして、生徒さんたちの感想を送ってくださったのですが、それを読むと、自由の捉え方が千差万別で興味深かったのですが、わたくしたちが自由や人権を論じるとき、だったらチャーチルや老兵士のように、自由を守るために戦いを辞さないか、血を流す覚悟はあるかと問うならば、どんな答えが返ってくるだろう。

   戦後を見て思うのは、日本だけではなく、戦勝した、あるいは解放された彼の地においても、70年前のあの戦争が未消化のままであることであります。それはだれもが被害者であってじぶんは加害者だとは言わないからで、だが、戦争においては、だれもがどこかで加害者になるしかないのではないか。それはけっして気分のいいものではない。だから加害者にならないために、戦争はおこしたくない、関わりたくない、なぞとわたくしなんかは思うのであるが、そういう厭戦論もあっていいのではないかと思ってしまうのであります。

   ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━春(はる) 具(えれ)1948年東京生まれ。自由学園、獨協大学、国際基督教大学院、ニューヨーク大学法学院をへて、国際連合(ニューヨーク、ジュネーヴ)にて人事行政、安全保障理事会:賠償委員会法務官を歴任。2000年よりオランダ・ハーグの化学兵器禁止機関にて訓練人材開発部長・人事部長。2010年退官。現在はオランダ在住。