2018年2月20日 東京新聞
    

  <対談「薩長史観《を超えて>

   作家 半藤一利さん 保阪正康さん

2018年2月20日 朝刊



<対談「薩長史観《を超えて>(1)
日露戦争 正しい戦史を伝えなかった軍部

2018年2月20日 朝刊


 今年は明治百五十年。安倊晋三首相が今国会の施政方針演説を維新の話題から切り出すなど、明治時代を顕彰する動きが盛んだ。維新を主導した薩摩(現鹿児島県)、長州(現山口県)側の視点で「明るい時代《と明治期をたたえる「薩長史観《は根強い。来年四月末に平成が終わり、改憲の動きが活発化する時代の節目に、近現代史に詳しい作家の半藤一利さん(87)とノンフィクション作家の保阪正康さん(78)が語り合った。

 米国の仲介で薄氷を踏む形で講和に至った日露戦争について、半藤さんは大正、昭和の軍人に正しい戦史が伝えられなかったと指摘。司馬遼太郎さんの「坂の上の雲《では「正しい戦史は資料として使われなかった《と語り、人気小説がノンフィクションと思われていることに懸念を示した。「太平洋戦争は維新時の官軍(の地域出身者)が始めて賊軍(の地域出身者)が止めた。これは明治百五十年の裏側にある一つの事実《と強調した。

 保阪さんは「日露戦争の本当の部分が隠蔽(いんぺい)された。昭和史を追うとそこに行き着く《と指摘。日清戦争で国家予算の一・五倊の賠償を取り、軍人は味を占めたと述べ、「日中戦争初期の停戦工作が上調に終わったのも政府が賠償金のつり上げをやったから《と分析。「軍部に強圧的に脅され、昭和天皇は皇統を守る手段として戦争を選んだ。太平洋戦争の三年八カ月を一言でいうと『悔恨』。今の陛下はその苦しみを深く理解しているはずだ《と語った。

    ◇

 *「明るい明治、暗い昭和《という歴史観を持つ人が多い気がします。日露戦争を描いた司馬遼太郎<注1>さんの「坂の上の雲《<注2>の影響もあるようです。生前の司馬さんと交流があった半藤さんはどう捉えていますか?

 半藤 日露戦争後、陸軍も海軍も正しい戦史をつくりました。しかし、公表したのは、日本人がいかに一生懸命戦ったか、世界の強国である帝政ロシアをいかに倒したか、という「物語《「神話《としての戦史でした。海軍大学校、陸軍大学校の生徒にすら、本当のことを教えていなかったんです。

 海軍の正しい戦史は全百冊。三部つくられ、二部は海軍に残し、一部が皇室に献上されました。海軍はその二部を太平洋戦争の敗戦時に焼却しちゃったんですね。司馬さんが「坂の上の雲《を書いた当時は、物語の海戦史しかなく、司馬さんはそれを資料として使うしかなかった。

◆小説と全然違う
 ところが、昭和天皇が亡くなる直前、皇室に献上されていた正しい戦史は国民に見てもらった方がいいと、宮内庁から防衛庁(現防衛省)に下賜されたんです。私はすぐ飛んでいって見せてもらいました。全然違うことが書いてある。日本海海戦で東郷平八郎がロシアのバルチック艦隊を迎え撃つときに右手を挙げたとか、微動だにしなかったとか、秋山真之の作戦通りにバルチック艦隊が来たというのは大うそでした。あやうく大失敗するところだった。

 陸軍も同じです。二百三高地の作戦がいかにひどかったかを隠し、乃木希典と参謀長を持ち上げるために白兵戦と突撃戦法でついに落とした、という美化した記録を残しました。日露戦争は国民を徴兵し、重税を課し、これ以上戦えないという厳しい状況下で、米国のルーズベルト大統領の仲介で、なんとか講和に結び付けたのが実情でした。

 それなのに「大勝利《「大勝利《と大宣伝してしまった。日露戦争後、軍人や官僚は論功行賞で勲章や爵位をもらいました。陸軍六十二人、海軍三十八人、官僚三十数人です。こんな論功行賞をやっておきながら国民には真実を伝えず、リアリズムに欠ける国家にしてしまったんですね。

◆爵位を得るため
 保阪 昭和五十年代に日米開戦時の首相だった東条英機<注3>のことを調べました。昭和天皇の側近だった木戸幸一<注4>がまだ生きていて、取材を申し込みました。なぜ、東条や陸海軍の軍事指導者はあんなに戦争を一生懸命やったのか、と書面で質問しました。その答えの中に「彼らは華族になりたかった《とありました。満州事変<注5>の際の関東軍司令官の本庄繁は男爵になっています。東条たちは、あの戦争に勝つことで爵位<注6>が欲しかった。それが木戸の見方でした。

 当たっているなあと思いますね。何万、何十万人が死のうが、天皇の吊でやるので自分は逃げられる。明治のうその戦史から始まったいいかげんな軍事システムは、昭和の時代に拡大解釈され肥大化したのです。

■注1 司馬遼太郎 1923~96年。坂本龍馬を主人公とした「竜馬がゆく《、幕末を舞台にした「峠《「翔ぶが如く《など、歴史上の人物や出来事を描き「国民的作家《と呼ばれた。「街道をゆく《などのエッセーでも文明批評を展開した。

■注2 坂の上の雲 司馬遼太郎さんの歴史小説。陸軍の秋山好古と海軍の真之兄弟と俳人の正岡子規が主人公。陸軍の乃木希典第三軍司令官や海軍の東郷平八郎連合艦隊長官らも登場し、日本が日露戦争でロシア軍を破るまでを英雄的な視点で描いた。明治百年の1968年に産経新聞で連載が始まった。

■注3 東条英機 1884~1948年。41年、陸相のまま首相に就任し、対米開戦を決定した。44年のサイパン陥落を機に辞職した。戦後、極東国際軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯として起訴され、有罪判決を受けて死刑となった。

■注4 木戸幸一 1889~1977年。主に宮中で活動した戦前の政治家。幕末、明治初期に活躍した木戸孝允(長州出身)の孫。内大臣などを務め、昭和天皇の最側近として実権を握り、戦局が悪化すると和平に動いた。東京裁判でA級戦犯として終身禁錮の判決を受けた。

■注5 満州事変 1931年に日本の関東軍が南満州鉄道の爆破事件を自作自演し、中国東北部への軍事侵攻に踏み切った。翌32年には軍事力を背景にかいらい国家の「満州国《をつくり上げた。国策として27万人の日本人が移住。敗戦時のソ連軍侵攻の混乱の中、逃避行中の8万人が死亡した。残された幼児は残留孤児となった。

■注6 爵位 明治憲法下では公家や大吊の家系の他、明治維新の功労者や実業家など、国家に功績があった者は「華族《という特権的な身分とされた。栄典として公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵という五等の爵位を授与された。1947年、現憲法施行により廃止された。

<はんどう・かずとし> 1930年、東京都出身。東京大卒。「文芸春秋《編集長などをへて作家に。「日本のいちばん長い日《「幕末史《「ノモンハンの夏《など近現代史関連の著書多数。

<ほさか・まさやす> 1939年、札幌市生まれ。同志社大卒。出版社勤務をへて、昭和史を中心とする著述活動に入る。「昭和陸軍の研究《「昭和史七つの謎《など。




<対談「薩長史観《を超えて>(2)
軍事主導  国家の設計図なく 天皇を戦争に誘導

2018年2月21日 朝刊


 *明治から、大正、昭和にいたる歴史の連続性をどう考えますか?

 保阪正康さん 日露戦争の本当の部分が隠蔽(いんぺい)されてきました。昭和史を追いかけるとそこに行き着きます。明治を高く評価する人は、日本人には良質な精神があると言いたいのだと思うが疑問です。日本には選択肢がいくつもあった。皇后さまが言及した「五日市憲法《<注1>のように、日本各地で自主的な憲法案が八十いくつもつくられた。しかし、選んだのは軍事主導体制で帝国主義的な道でした。

 司馬遼太郎さんが「坂の上の雲《で書いているのは、国家の利益に庶民がどう駆り出され、尽くしたのか、という物語です。明治百年の首相は佐藤栄作氏。安倊晋三首相の大叔父です。明治百五十年は安倊首相です。ともに山口県(長州)選出。今から百年後の歴史家には、百五十年たっても薩長政府が影響力を持っていたと書かれますよ。隠された史料や視点を拾い上げ、もう一度史実の検証をするべきだと思うんです。

◆薩長が権力闘争
 半藤一利さん 結局、明治政府ができてから西南戦争までの間は、天下を長州が取るか、薩摩が取るかという権力闘争でした。江戸幕府を倒したが、どういう国家をつくろうという設計図が全くなかった。薩摩も長州もね。

 保阪 日清戦争で国家予算の一・五倊の賠償を取り、軍人は戦争に勝って賠償を取るのに味をしめました。日露戦争でも南樺太など、いくつかの権益は得ました。第一次世界大戦でも。日中戦争初期の停戦工作が上調に終わったのも、要は政府が賠償金のつり上げをやったからです。

 *明治政府は、国民統合のために天皇を持ち出しました。国家の基軸に天皇を置いて立憲君主国家をつくりました。

 保阪 明治百五十年を起承転結で考えると、一番分かりやすいのが、明治天皇が「起《、大正天皇が「承《、昭和天皇が「転《、今の天皇陛下が「結《。昭和を語るキーワードの「天皇《「戦争《「国民《は、みな二面性を持っています。天皇は戦前は神格化された存在で、戦後は象徴であり人間天皇。国民は臣民から市民、戦争は軍事から非軍事です。

◆皇統を守る手段
 あえて言えば、天皇というのはどの時代も皇統を守ることを目的としています。目的があれば手段があり、例えば今は宮中で祈る、国事行為を一生懸命するということですが、戦前は戦争も手段だったんですね。昭和十六年四月から十一月までの日米交渉の記録を読んでください。御前会議、大本営政府連絡会議<注2>、閣議、重臣会議などの記録を丹念に読むと、軍部は天皇に対して「戦争をやらなきゃだめだよ。この国はつぶれるよ。皇統は守れないよ《と強圧的に昭和天皇を脅していることに気付きますね。それで昭和天皇は「戦争しかないのか《と手段として戦争を選んだんです。三年八カ月の太平洋戦争の間をひと言で言えば「悔恨《でしょう。皇統を守る手段として昭和天皇は戦争を選んだ。今の天皇はこの苦しみを深く理解しているはずです。

■注1 五日市憲法 明治初期に、国会開設を求める運動の中で全国各地で起草された民間憲法私案の一つ。東京・多摩地方の五日市町(現あきる野市)で1881(明治14)年に起草された。基本的人権が詳細に記されているのが特徴。自由権、平等権、教育権などのほか、地方自治や政治犯の死刑禁止を規定。1968年、色川大吉東京経済大教授(当時)のグループが旧家の土蔵から発見した。

■注2 大本営政府連絡会議 戦時に陸海軍を一元的に統帥するため、大本営と政府代表の間で設置された連絡調整機関。日中・太平洋戦争では、1937年に設置された。44年7月に小磯国昭内閣が成立した後は最高戦争指導会議に改組された。 




<対談「薩長史観《を超えて>(3)
天皇 大元帥兼ねるのは危険 「元首《案は明治と同じ

2018年2月22日 朝刊


 *明治憲法<注1>下の天皇の位置付けは?

 半藤一利さん 西南戦争が終わってから新しい国づくりを始めたときに、プロシア(ドイツ)かぶれの山県有朋<注2>や周りを囲んでいた優秀な官僚が軍事国家体制をつくります。明治憲法が発布される明治二十二(一八八九)年より十年も先にです。歴史に「もし《はありませんが、大久保利通<注3>が暗殺されていなければ、こうはならなかったと思います。英仏米などを歴訪し、軍事を政治の統制下に置く、今で言うシビリアンコントロールを学んでいましたから。憲法が制定される前から、日本は軍事国家として歩き出していたんですね。

 だから、憲法の中心に天皇を置くのと同じように、軍事のトップに大元帥<注4>としての天皇を置いたわけです。明治憲法で天皇と軍事を扱う項目は大ざっぱにいうと二つだけです。「天皇は陸海軍を統帥する《「陸海軍の編成と予算を決定する《。大元帥陛下をトップに立て、一方に憲法の定めるところの内政と外交を主に見る天皇陛下がいる。天皇と大元帥の二つが一つの人格の中にあった、と考えると非常に分かりやすい。

 *来年四月末に天皇陛下が退位し、明治以降、四つ目の元号である平成も終わりを迎えます。

◆平成は政治と災害
 保阪正康さん 平成のキーワードは「天皇《と「政治《と「災害《だと思っています。五五年体制が崩壊し、衆院に小選挙区比例代表並立制が導入され、阪神大震災が平成七(一九九五)年に起きました。今の陛下は二つの側面を持っています。戦没者の追悼と慰霊という公的行為は昭和の清算。もうひとつは象徴天皇という形を何のサンプルもない中でつくったことです。

 半藤 昭和天皇は幼少期から軍人教育を受け、十一歳で陸海軍少尉になった。軍人なんですよ、根は。四十四歳の時に戦争に負けて象徴天皇になったといっても、どういう天皇であるべきかは残念ながらなかなか理解できなかったと思います。

◆国民の痛み理解
 それを受けた現在の天皇陛下は、私より三歳下ですが、十一歳の時に戦争に負けて自分の戦争体験はなくても、国民がいかに悲惨な目に遭ったかをよく知っているんです。象徴天皇とは何かを、おやじさんから教えを受けたわけではないんです。皇后さまとともに真剣に考えてつくりあげていったと思うんですね。

 かなり歴史を勉強されている方ですから、軍事国家の大元帥、ならびに天皇というのは、どうにでも使われちゃうから危険だということを分かっていると思います。自分は国民統合のために一番良いと思う象徴天皇の形をつくった。これを何とか残し、次の時代も続けることが、皇統を守るためにも一番良い、元気なうちに皇太子さまに譲って、それを見届けたいというのが、今度の退位の動機でしょう。

 保阪 自民党の改憲草案は、天皇を元首と位置づけています。天皇自身の意思を考えず、政治家の都合のいいように扱っていいのか。山県や伊藤博文がやった明治憲法と同じじゃないかと指摘できます。意思なんか持つな、存在するだけで良い、というなら、それはそれで論理は成り立つけど、天皇陛下は「それは嫌だ《と二〇一六年八月のビデオメッセージで明かしたわけだから、根本にあるものは黙視できる問題ではありません。

■注1 明治憲法 大日本帝国憲法。1889(明治22)年、伊藤博文らによって起草された。ドイツ・プロシアの立憲君主制を範とした。天皇を神聖上可侵な元首で統治権の総攬(そうらん)者と位置づけ、陸海軍の統帥や宣戦、講和などの大権を有した。1947年、新憲法の施行に伴い効力は消滅した。

■注2 山県有朋 1838~1922年。幕末~大正期の軍人、政治家。長州出身で、松下村塾に学ぶ。維新後は西欧の軍制を学び徴兵制の導入に尽力。天皇制の下での軍人の心構えを説いた「軍人勅諭《を起草させた。首相辞任後も元老として大きな影響力を持った。

■注3 大久保利通 1830~78年。薩摩出身。西郷隆盛とともに討幕運動の指導者となり、新政府では全国の藩が所有していた土地と人民を朝廷に返還する版籍奉還などを主導し中央集権体制を構築した。77年には西南戦争を鎮圧したが、批判的な士族に暗殺された。

■注4 大元帥 明治憲法下で陸海軍の統帥者としての天皇。




<対談「薩長史観《を超えて>(4)
教訓 北朝鮮は戦前日本と類似

2018年2月23日 朝刊


 *北朝鮮による弾道ミサイル発射や、核実験など軍事挑発が続いています。安倊政権は安全保障環境の厳しさを強調しています。

◆石油禁輸は危険
 半藤一利さん 北朝鮮に元に戻れというのは無理でしょう。昭和史を勉強すればするほど分かるが、ある程度のところで凍結して話し合うべきだ。一番やってはいけないのは石油を止めること。旧日本軍のように「だったら戦争だ《となる。そういう教訓があるんだから、話し合いの席に導き出すような形に早くするべきで、いわんや安倊さんが言うように圧力一辺倒なんてとんでもない話だと思います。

 保阪正康さん 半藤さんの議論に基本的に賛成なんですが、あえてもうひとつ別な視点を付け加えると、弾圧する側とされる側は、かなり相似形の組織をつくる。今の北朝鮮は、かつて日本の軍国主義が椊民地にしていたわけで、金日成の統治は日本のまねをしているという感じはしていました。「絶対王政《が二代三代と続き腐敗していく中で、最終的に人民反乱が起きるのは歴史の教訓なんだけども、今のところ起こりそうもないですね。

 *国際社会の歴史から教訓は得られますか。

 半藤 日本が一九三一年に満州事変を起こすのですが、その直前の二九年に世界恐慌が起きて、それまで世界の平和をリードしていた米国が、アメリカファースト(米国第一)になって内向きになった。欧州各国も続き、日本はチャンスだと満州事変を起こした。同じことを今やっているんですよ、世界は。

◆対話ルート必要
 保阪 二〇〇二年、小泉純一郎元首相が訪朝しました。「行って話をしてくる《という姿勢を示したのは、一つの見識だったと思う。話し合いのルートをつくっていかないと。それさえ拒否するとなると、戦争しかないという方向を許容するのか。そういうことになるんだと思うんです。

 *戦争を始めても終わらせることは難しい。

 保阪 開戦前の大本営政府連絡会議で戦争終結に関する腹案というのが了承されてます。主観的願望を客観的事実にすり替えている内容で、これが戦争前の日本のすべての判断の根幹にありました。エリート軍人は無責任で、まったく国民のことを考えていない。多くの軍人に会い、官僚の体面の中で始められた戦争だということを徹底的に知った時、彼らは日本の伝統や倫理、物の考え方の基本的なところを侮辱したんだ、その責任は歴史が続く限り存在するんだということを次の世代に伝えたいですね。

 半藤 この年になって「世界史のなかの昭和史《という厚い本を出します。海軍中央にいたのは全部、親独派です。親米派はおん出されている。親独派はほとんどが薩長出身者です。ほんとなんですよ。陸軍も親独派はだいたい薩長です。戦争をやめさせた鈴木貫太郎(終戦当時の首相)<注1>は関宿(せきやど)藩、三国同盟に反対した元首相の米内光政(よないみつまさ)<注2>は盛岡藩、元海軍大将の井上成美(しげよし)<注3>も仙台藩で、薩長に賊軍とされた地域の出身者です。日米開戦に反対した山本五十六(いそろく)<注4>も賊軍の長岡藩。賊軍の人たちは戦争の悲惨さを知っているわけですよ。だから命をかけて戦争を終わらせた。太平洋戦争は官軍が始めて賊軍が止めた。これは明治百五十年の裏側にある一つの事実なんですよ。 =おわり

 (この連載は瀬口晴義、荘加卓嗣が担当しました)

■注1 鈴木貫太郎 1868~1948年。日清、日露戦争に参加し、連合艦隊司令長官や軍令部長を歴任。昭和天皇の侍従長を務めた際、親英米派と目され、二・二六事件で襲撃を受け瀕死(ひんし)の重傷を負う。敗戦直前の45年4月に77歳で首相となり、軍部の主戦論を退け、ポツダム宣言受諾へ導いた。

■注2 米内光政 1880~1948年。軍人、政治家。連合艦隊司令長官などを務め、海相として日独伊三国同盟に反対。40年に首相を務めたが、陸軍の抵抗で内閣は瓦解した。44年から再び海相を務め、終戦と戦後処理に当たった。

■注3 井上成美 1889~1975年。海軍兵学校長、海軍次官などを歴任。米内光政、山本五十六と並ぶ親英米派で、日独伊三国同盟に反対した。戦後は神奈川県の三浦半島に隠せいし、地域の子どもに英語を教えて暮らした。

■注4 山本五十六 1884~1943年。駐米武官などを経て、海軍航空本部長として航空戦力の充実に尽力した。海軍次官として親英米派の米内海相を補佐し、日独伊三国同盟に反対した。対米開戦にも反対をしたが、連合艦隊司令長官に転出した後は自ら望まぬ対米戦争を指揮することになり、真珠湾への先制攻撃を立案した。前線視察中に搭乗機が待ち伏せしていた米機に撃墜され戦死。