問い直す戦争70年目の視点

   対談 東京裁判   半藤一利 保坂正康


     東京新聞11月29日(日)
 昭和の戦争指導者を裁いた東京裁判は、戦後の再出発の礎となった。戦勝国による一方的な裁きとの批判もあるが、作家半藤一利氏(八五)とノンフィクション作家保阪正康氏(七五)は、人類史に占める意義に着目。「侵略や残虐行為を断罪した判決を受け入れ、日本は世界に平和を語る権利と義務を負った《と語る。

    日本には、平和を語る義務がある
    「平和、人道への罪」・‥理念受け入れた
    今も、裁かれるべき戦争山ほどある

     ● くたびれた老人

  --- 戦時中に育ったお二人にとって、裁判はどんな出来事でしたか?

半藤 私は裁判を傍聴しているんですよ。一九四八年春、十七歳だった。A級戦犯被告として裁かれた白鳥敏夫元駐イタリア大使の息子が、私の旧制高校の同級生で、彼に誘われて関係者席に座った。被告席ははっきりは見えなかったが、戦争のリーダーはこんなくたびれた老人ばかりかと驚いた。これじゃ勝てるわけないと。

保坂 私は小学校低学年であまり実感がないが、判決の「デス・パイ・ハンギング(絞首刑)《という言葉が子どもたちの問ではやったね。ラジオで何回も放送された。

半藤 「コウキ・ヒロタ(広田弘毅元首相)、デス・パイ・ハンギング《と聞いた時、父が「えっ、広田さん絞首刑なのか《と驚いたのを覚えている。軍人じゃないから、まさかと思 ったようです。

  --- 広田元首相は外交官出身で、軍人ではない唯一の文官。同情論もありますが?

半藤 自殺した近衛文麿元首相の代わりでしょう。ナチス・ドイツを裁いたニュルンベルク裁判でも文官が一人校首刑になっており、戦勝国側はそれを踏襲したと考えられる。

保坂 二・二六事件後に首相になり、軍の要求を数多く受け入れてしまった。城山三郎さんの小説「落日燃ゆ《は、彼を美化しすぎていると感じる。


     ● 何人死なせれば

  --- その対極が東条英機元首相。今年公開された半藤さん原作の「日本のいちばん長い日《でも、戦争継続論者として描かれました。

半藤 終戦直前に東条元首相が書いた手記が近年、明らかになったんです。「敵の脅威に脅え簡単に手を挙ぐるがごとき国政指導者及国民の無気魂なり《と、国民まで批判する内容。 首相兼陸相兼参謀総長を務め、戦況がどんなにひどいか骨身にしみていたはずなのに、まだこんなことを言っていたのかと思いますね。

保坂 ずっとこのような認識を持っていた軍人だ。国民の生命・財産を守る意識がまるでない。国民を何人死なせれば気が済むんだ、と思う。

  --- 日本の愚かしさの象徴として検察側が提出しようとした「占領地の土地処分案《とは?

保坂 ドイツと世界を分割しようという案で、米国アラスカ州や中南米の支配まで想定している。朝鮮や台湾に置いた総督府を、オーストラリアやインドにも置く内容。緒戦の快進撃に有頂天になった参謀たちが、四二年二月に考えた。何を考えていたのかと噴き出すような誇大妄想で、証拠としては却下された。

半藤 歴史に対する日本人の意識の浅さが浮き彫りになった裁判でもあった。裁判で上利な証拠になってはいかんと、終戦時に国や軍の資料をバンバン燃やしてしまったね。

  --- 裁判での米国の思惑は?

保坂 何よりもハワイの真珠湾攻撃をだまし討ち、侵略として裁きたかったが、立証できなかった。日本が開戦直前に宣戦布告をしようとし、手違いで通告が遅れたことが、裁判で認定されたためです。米国は日本の暗号を解読して攻撃を予測しており、裁判でそれが議論される恐れが出てきた。だから、裁判後半ではあまり真珠湾に触れなかったけど。


     ● 残虐行為を問う

  --- 日本を裁くために戦勝国が持ち出したのが、侵略戦争の共同謀議という考え方ですね?

保坂 ドイツにはヒトラーという絶対的な指導者がいて、ニュルンベルク裁判ではそれに連座したナチスの指導者が裁かれた。検察側は、日本でも指導者らを「軍閥《で一くくりにし、侵略に合意していたことを立証しようとした。でも満州事変から終戦までの十五年間、指導者は次々に交代しており、実態に合わない。

半藤 それがこの裁判の弱いところで、共同謀議は日本では成立しません。判決を受けた二十五人のうち、二十三人が共同謀議に加わったとされたが無理やりだ。簡単に言うと、死刑判決の人は、共同謀議より残虐行為が問われたとみていい。判決には「捕虜虐待を防ぐ措置を怠った《などとしか書いていないが、木村兵太郎元陸軍大将なら、泰緬鉄道建設時の多くの死を英国が許さなかったと考えられます。武藤章元陸軍中将の場合は、フィリピンで捕虜らが多く死んだ収容所への移送(バターン死の行進)。ただ、着任前の出来事で気の毒ですね。真の責任者が既に処刑されていたからだろう。

保坂 武藤元中将が巣鴨拘置所で書いた日記があります。判決を受けて自室に戻ったら、隣の部屋から鶴田繁太郎元海相の高笑いが聞こえた、とある。鶴田元海相は終身禁鋼刑で、命は助かった。武藤元中将の日記のこの一行に「なんで俺が死刑になって、あいつがならないんだ《という万感の思いがこもっている。

  --- 被告に、思想家で国家主義を唱えた大川周明かいるのが目を引きますが。

半藤 侵略戦争の思想的根拠をつくったと目された。ニュルンベルク裁判で、思想家ローゼンベルクが裁かれたのにならったのでしょうね。

保坂 東京裁判では当初、言論人として徳富蘇峰が被告に擬せられたとされる。国民に向け戦争をあおった代表格だが、高齢で裁判に耐える体力が無いということで外されたのでは。実際には蘇峰は元気そのものだったのですが。大川は裁判中、前の席にいた東条元首相の頭をたたくなどし、精神疾患があるとされて入院した。結果的に、日本の言論界は裁かれずに終わったと言える。


     ● 周到な天皇免責

  --- 昭和天皇についてはどうみますか?

半藤 日本は無条件降伏をしたとされるが、ポツダム宣言は天皇の地位保全を条件に日本が受け入れた。地位保全は最初はポツダム宣言に明文化されていたのに、最後の段階で削られた。ただ、外務省は「天皇の地位は保全される《と手応えを感じていた。だから米国は早い段階から天皇免責を決めていたでしょう。

保坂 連合国軍総司令部(GHQ)のマッカーサー最高司令官は、米国大統領選出馬を視野に入れていたね。日本国民が反旗を翻して自身の統治能力が問われることのないよう、天皇の保全を考えたのでは。

半藤 米国は天皇を外すためにものすごく苦労したと思う。側近の木戸幸一元内大臣を何度も呼び、天皇がいかに平和を愛し、政府と軍部の決定に「ノー《と言えなかったかを語らせている。天皇の言動が記された「木戸日記《も提出させた。形を整え、「天皇を訴追せよ《と主張するオランダやオーストラリアなどを説得した。

   --- 証人尋問で東条元首相が口を滑らせる場面もあったようですが?

  保坂 木戸元内大臣担当の弁護人から「天皇の平和の希望に反して行動した事例はあるか《と聞かれ、東条元首相は「日本国民が陛下の意思に反することはありえない。まして高官はなおさらだ《と答えてしまった。それでは天皇に戦争責任が生じてしまう。そこで、さまざまな人物が証言を修正するよう東条元首相を説得。次回の証人尋問の練習まで行った。

半藤 それを指示したのが、追及する側のキーナン検事ですからね。「あれではまずい。もう一度質問するからちゃんと言い直させろ《と。そういう意味では茶番劇だ。

保坂 判決をよく見ると、絞首刑になったのは首相経験者や軍部の前線の指揮官ばかりで、陸海軍の中央、いわゆる統帥部の幹部は外れている。統帥権は天皇の専権で、戦争責任に直結するからですよ。東京裁判にこの種のからくりはいくつもある。


     ● 国民も被害者に

  --- 戦勝国による一方的な裁き、との批判もあります。

半藤 それまでの国際法では、侵略戦争とは何かを定義していないし、戦争を始めた指導者を犯罪人として裁く考え方はなかった。事後に法をつくったということですね。ただ裁判を傍聴した一人として言うと、当時の国民感情には「政府と軍部の指導者に戦争責任があり、極刑にされるべきだ《という思いがあったと思う。裁判の起訴状は、日本国民も軍閥の被害者と位置付けた。

保坂 裁判は私たちが知らないこと、戦争の実態を明かしてくれましたね。

半藤 南京事件など日本車の残虐行為は、日本国民には知られていなかった。国民は、日本軍は規律を守るものだと思っていた。日清戦争と日露戦争で天皇が出した開戦の詔勅には「国際法を守って戦う《という趣旨が書いてある。しかし、太平洋戦争では東条元首相が削ったとされる。

保坂 東京裁判が始まる前に、日本政府の中に天皇の命令、いわゆる勅令に基づいて戦犯裁判をやろうという動きがあった。しかし、天皇が「昨日までの臣下を裁くわけにはいかない《と認めなかったんです。

半藤 もし日本人の手で裁判をやっていたら、絞首刑は七人ではすまなかったでしょう。日本人同士の間に永遠の恨みが残る。だから戦勝国による裁判は、一面では戦後の日本が混乱なく再出発できるという意味を持っていた。礎だった。

保坂 その通り。勝者による復讐で、二度と戦争を起こさせない仕組みをつくる裁判だったことは否定しない。だが、それを超える意義がある。

     ● 昭和史から教訓

  --- それは?

保坂 「平和に対する罪《「人道に対する罪《を許さないという、二十世紀の文明理念を入れたことです。人類の普遍的な価値を裁判に持ち込もうとした努力を認めなくてはならない。私たちの国はそれを受け入れ、反省した。そうすると、私たちはすごい権利と義務を得たことになる。

 つまり、戦勝国に「あなたたちは東京裁判で裁いた責任がある《と言えるし、言わねばならないということ。侵略戦争や残虐行為が起きた時、「日本を裁いた論理を、あなたたちは崩しているじゃないか。何やってるんだ《と。しかし、平和を語る責任を日本は自覚していない。

半藤 日本は言わなきゃいけない。戦勝国は日本と同じことをやってると思う。現代史で、裁判をやらなければいけない戦争は山ほどあります。ベトナム戦争で米国がやったソンミ村の虐殺は何だ。イラク戦争では、攻撃される危険性があるからと先制攻撃し、日本の真珠湾攻撃より悪いですよ。結局、大量破壊兵器が見つからず、英国のブレア元首相は最近になって「間違いだった《と謝罪したが、日本の政治家からそういう声は聞こえない。過激派組織イスラム国(IS)を生みだし、世界の混乱を招いてしまった。

保坂 集団的自衛権の行使容認を柱とする安全保障関連法が制定され、日本はさらに平和を語れない立場に立ってしまった。「中国や北朝鮮が攻めてきたら・・・《などと言う政治家がいるが、戦争は政治の失敗でしょう?

 失敗を前提に政治をやるのは上謹慎だと思う。その前にやるべきことがある。

 国際刑事裁判所が設置されて戦争犯罪を裁く常設機関ができ、日本も加盟したが、米国、中国、ロシアは加盟していない。裁かれた日本の方が理知的になり、理念を説いて人類に貢献するという「逆転の事実《をつくるべきだ。

半藤 歴史的教訓は全部、昭和史に書かれてある。昭和史からそれを大いに学ぶことです。