戦場の記憶 語らぬまま

   10年何かに耐えていた父

女優、ライフアドバイザー 浜美枝さん 72


      2016.08.25 読売新聞
       
 はま・みえ 1943年、東京生まれ。友達と参加したコンテストで東宝関係者の目に留まり、60年に映画デビュー。「007は二度死ぬ《で日本人初のボンドガールに抜てきされる。40代から食や農業のコメンテーターに。



      胸騒ぎ


 私の幼い頃の記憶は、父の後ろ姿で始まります。何かにじっと耐えている、そんな背中でした。

 我が家はあの戦争ですべてを失いました。父と母は東京・亀戸で段ボール箱を作る工場を営んでいました。小さな町工場だったと聞いています。戦前の亀戸には同じような町工場がたくさんあったようです。

 それでも女子工員さんを雇うようになり、「さあこれから《という時に大黒柱の父が兵隊にとられてしまいます。工場は母が切り盛りしていましたが、東京大空襲で自宅もろとも灰になってしまいました。

 東京への空襲が繰り返し行われるようになり、母は大空襲の前日、「何だか胸騒ぎがした《そうで、幼い兄とまだ赤ん坊の私を連れて横浜の知人宅に身を寄せようと決めました。亀戸を去る朝、母が「あなたたちも早く避難しなさい《と諭した、いずれも10代の女子工員さん23人は、大空襲で全員亡くなりました。皆さん実家が下町にあったのです。

 戦後、母は「申し訳ない、申し訳ない《って仏壇に手を合わせていました。そんな母を見ていたら、詳しくは聞けませんでした。亀戸を訪ねて「この辺りに工場があって……《などという話を聞いたこともありません。母は若い頃よく遊んだ浅草が大好きで、戦後もしょっちゅう出かけていましたが、亀戸まで足を延ばすことは一度もなかったのです。

    内なる戦い

 焼け出された私たちが移り住んだのは川崎です。戦争が終わると父も無事復員しました。ところが父は帰還後10年近く、自宅でぽうぜんと過ごす日が続きました。物心ついた私の胸に焼き付いたのは、そんな抜け殻のような父の背中です。

 過酷な戦場を生き延びて帰還した元兵士の中に、当たり前の日常生活が送れなくなる人がいることは、ベトナム戦争の後注目されました。父もそうした元兵士の一人だったのです。

 私は父に叱られたことがありません。とにかく穏やかで優しい人でした。そんな父にとって、戦場での経験は身内に話すことさえつらいことだったのでしょう。

 父は熊本県八代市、母は三重県伊勢市の出身です。2人とも実家の家業がうまくいかず、ひと旗揚げようと上京したようです。よく似た境遇の2人が東京で出会い、亀戸に居を構え、小さな工場を起こします。父が応召したのは私が生まれて間もなくのようで、30歳になるかならないかだったはずです。

 2人の出会いや亀戸での暮らし、父が応召した日の思いなど、戦争のころの話は我が家ではタブーでした。私が覚えているのは、何かを耐える父と自責にかられて拝む母の姿です。

 私の幼い頃の写真がわずかに残っていますが、どの写真も、どこか子供っぼくないのです。笑顔の写真は1枚もありません。父の背を見ながらいつも、お父さんはどうしてあんなになったんだろうと考えていました。

 戦争って、どういうことが起きるの。
 お父さんはどんな所で戦争をしたの。
 そこで何があったの。

 父はそうした問いへの答えを、復員する時にすべて封印したのです。たぶん南方に派遣されたのだと思いますが、どんな部隊で何をしたのか。どうやって帰還したのか。一切、話しませんでした。そして、帰還して10年近く、父の「内なる戦い《が続きました。

  言いたいことが山ほどあったはず。つらかったろう、悔しかったろうと思います。でも、一切を自分のおなかの中にしまい込み、理上尽を強いた国家というものへの愚痴や批判も一言もありませんでした。

 2人きりでお酒を飲みながら、「で、どうだったの《と聞いてみても、さらりと話をそらしてしまいます。表情を曇らせるでもなし、「うるさい《とはねつけるでもなし。黙って飲み続けるだけでした。

     恨まない

 焼け出された我が家には何もありませんでした。長屋の6畳ひと間に、父方の祖母、戦後に生まれた2人の弟を合わせて一家7人で暮らしました。布団も折り重なるように敷いて、ちゃぶ台は逆さにしたリンゴ箱。父が働けるようになるまで着物の仕立てなどで家計を支えた母に代わり、私が炊事や洗濯を任されました。5歳かそこらで、手を真っ赤に腫らして冬の水仕事をしていました。

 それもこれも戦争のせいです。でも、無謀な戦争を始めた誰かを恨む気持ちが、上恩議と私にはありません。もちろん戦争には反対です。ですが、自分がつらい目に遭っているのは誰かのせいだと考えることがないのです。

 父と母の沈黙。それは、「置かれた状況を誰かのせいにして、愚痴をこぼしていても仕方ないよ。自分の道は自分で切り開くしかないんだよ《という教えだったように思えるのです。

 聞き手 編集委貞 岩本洋二
     撮影 平博之

 少女の目

 浜さんが小学校にあがる前、自宅近くの神社で撮ったという写真が印象的だ。ご本人も「レンズを射るような強い目《とおっしゃる少女。今も中東などの戦地で撮影した写真には、こんな目をした少女が写っている。
 少女の目には父の背中の向こうに無残な戦場が見えていたのかもしれない。
 インタビューの終わりに、あの戦争がなかったら女優・浜美*枝も生まれなかったのではと尋ねた。ややあって「そうかしらね《。否定でも肯定でもないニュアンスの返事。戦争という状況に押し流されて女優にたどり着いたわけではない。自ら選び取ったのよ。そう理解した。  (岩)