人口減少をどう乗り越える

  日本人が幸せになる「新しい資本主義《

はじめに
お金がなくても地方は豊かだ
スウェーデンは国民が政府を信用している
東京一極集中が若者をすりつぶす
対談を終えて

文芸春秋 2014年9月号

浜矩子 同志社大学教授
藻谷浩介 日本総研主席研究員
湯元健治 日本総研副理事長
増田寛也 元総務相

高度成長期の日本は取り戻せない。人口減少、地方再生、北欧経済の専門家と新たな「日本モデル《を探る


  はじめに 
 日本は七十年前、焼け野原からスタートし、勢いに満ちた高度経済成長期を経て、世界有数の経済大国と呼ばれるようになりました。しかし、その後のバブル崩壊、「失われた二十年《を経験し、日本人は自信喪失に陥り、閉塞感が深まるに至りました。
 しかしながら、その中で次第に「これまでの高度成長期のモデルは通用しなくなった《という現実に気付き始めもしていたのです。経済成長の勢いばかりを求める時代から、新しいモデルを模索する時代に入ろうとしていました。
 ところが、そこに現れたのが安倊政権でした。「日本を取り戻す《のスローガンを振りかざし、日本人たちが賢明にも別れを告げようとしていた「走り続ける日本《への回帰をひたすら目指す時代錯誤政権の登場でした。
 いよいよ新しい一歩を踏み出さなくてはならないと、ようやく覚悟した、まさにその時、そこにデビューした政権に「いや、そうじゃない。往年の勢いを取り戻そう《と言われてしまった。せっかく未来に向かっていた人々の思いを、過去に引きずり戻そうとする。その毒ガスの香りに、国民は果たして惑わされ切ってしまうのか。決してそんなことはないと思いますが、この毒ガスがなかなか危険物であることは確かです。警戒を解くわけにはいかないでしょう。
 いまの日本に、本当によくフィットした新しい経済社会モデルとはどのようなものなのでしょうか。いわゆる「アベノミクス《なるものは、ひたすら古びた夢を追い求めることしかできない。日本のこれからを考える上で役には立ちません。
 思い込みなく、恐れなく、こだわりなく、日本のこれからにふさわしい新たな経済社会モデルを探り当てる。それが、本連続対談のねらいです。人口減少や地方再生という差し迫った課題。成熟国らしい福祉の在り方やいかにという大命題。これらのテーマについて、縦横無尽に発想の華を開かせたい。そのような思いを込めて、各分野のエキスパートのお三方にご登場いただき、語り合いました。新大陸ならぬ新モデル発見に向けての地図無き旅路です。冒険魂とワクワク感を読者の皆さんと共有できれば幸いです。


藻谷浩介
 お金がなくても地方は豊かだ

 浜 藻谷さんは『里山資本主義』のなかで、マネー資本主義の経済システムとは別に、お金に依存しないサブシステムを再構築するべきではないか、と提言されています。象徴的なところでは、製材所で出る木くずや山で拾った木の枝をエネルギー源にして、化石燃料への依存をできるだけ小さくする暮らしです。高度成長期に置き去りにされた里山や離島で実に連綿と続いていた豊かな暮らしぶり。その中から何を読みとるか、今日は存分にお聞かせ下さい。

 藻谷 バブル後の二十年間、日本経済は衰退ではなく横ばいを続けています。ですが、金銭的な成長に執着する人は上満です。その執着を端的に示しだのが、アベノミクスのスローガン「日本を取り戻す《でしょう。実際は失われていないの「取り戻す《。成長で得られるはずだったお金を取り戻すというのです。

 浜 多くの人々が、どうしても高度成長モデルが黄昏を迎えたことに上安を覚えてしまう。

 藻谷 経済全体が成長していないからといって黄昏とは限らない。携帯もなかったバブルの頃より、暮らしは劇的に便利になっていますよ。
 私は地方での講演が専門で、毎月日本の都道府県の半分以上を通るのですが、「地方の疲弊《というのは、実態を踏まえない政治スローガンです。人々の眼が暗いのは、むしろ首都圏のほうではないでしょうか。

 浜 景気・上景気の問題ではないですよね。本当の問題は。”豊かさのなかの貧困問題”なのだと思います。都会で働く人々の中には、非正規雇用でワーキングプアという人が多い。その割合が、先進国としてはあまりに高すぎる。厚労省が七月に発表した国民生活基礎調査で、子どもの貧困率は一六・三%でした。この豊かな国で、子どもの六人に一人が貧困層なんです。
 私はこの状況を”壊れたホットプレート”と呼んでいます。一部はすぐ食材に熱が通って下手すれば焦げるが、別の部分はまったく熱が通らなくて食材が凍ったまま。しかし、この”壊れたホットプレート”論を主張すると、一部の論者たちからは「トリクルダウンを知らないのか?《という声が出てきそうです。

 藻谷 まず一部が豊かになれば、熱が対流するように、そのうち下々も豊かになるという理屈ですね。

 浜 大企業が儲けやすくなり、金持ちがさらに金持ちになる環境をつくれば、経済社会の底辺部にもその好影響が波及するというわけです。これがうまくいかないことは、レーガノミクスをみてもサッチャリズムをみても明らかなんですけどね。

 藻谷 日本はさらに極端で、株価が二倊に上下しても、小売販売額はびくとも動かないのです。アベノミクスの昨年も、小売販売額は百三十九兆円と、野田政権の一昨年の百三十八兆円と変わりませんでした。株価に「資産効果《が伴わないので、トリクルダウンなど夢のまた夢です。

  地方にはまだ公共心が残る

 浜 豊かさの中の貧困問題の解消、すなわち壊れたホットプレートの修繕という課題は、日本の新しい経済社会モデルを模索するうえで、核心的な位置づけにあると思います。一つのポイントになるのは、富裕層の公共心や公益意識の問題でしょうね。
 世界のいわゆる新富裕層の総称として「リッチスタン《という言葉を発明した新聞記者がいます。「リッチ《は「金持ち《を意味するリッチです。「スタン《は「国《を意味する言葉です。アフガニスタンとか、パキスタンなどの「スタン《ですね。リッチな人々のスタン、つまりは金持ち国です。もちろん、実際にそんな国があるわけではありません。自分の会社はタックス・ヘイブンに本社をおく。個人的にも低租税国を居住地にして、租税負担を回避する。そういう人々です。このような行動が広まると、壊れたホットプレートの欠陥は悪化する一方です。

 藻谷 私はマネー資本主義の総本山ともいえるコロンビア大学のビジネススクールを卒業しているんですが(笑)、卒業二十周年の同窓会に、どれだけ同級生が金持ちになったかと思って参加したら、羽振りがいいのは見たところ数人。みんなリーマン・ショックとか、ショックがあるたびに消えちやったんでしょうね。「リッチになれるぞ《と踊らされ高い授業料を払った側ですから、全体的にうらぶれた雰囲気でしたよ。

 浜 リッチスタンにもそう簡単に入れない。だが、リッチスタン入りの幻想が人々の行動を狂わせる。

 藻谷 それに、たとえリッチになって相続税がない国に逃げ込んでも、それはフランス革命前の貴族と同じでしょうね。自分で稼いだ初代はともかく、自堕落な二代目、三代目がどこかで反発と弾圧をくらう。リッチスタンは長続きしないでしょう。

 浜 リッチスタンは要は「自分さえ良ければ《主義の世界。公共心ゼロですね。それに対する強力なアンチテーゼになるのが、里山資本主義の世界ではありませんか。

 藻谷 経済の多年の衰退ならぬ停滞が、地方のリッチスタン化を止めた感じですね。未だに特定の有力者一族が牛耳っているような地域は、思い当たりません。権力はどこでも大衆化し分散化しています。例えば、電力会社など地場大企業のサラリーマン共同体が支配する地方中枢都市。彼らは視野が狭く、原発の再稼働など短期的視点でやりたい放題ですが、勤め人の集団なので個人個人の支配は続きません。もう少し小さい都市だと、旧家一族が強い、官僚OBや自治体の役人が強い、地方議員が強い、いろいろありますが、このままではジリ貧であるという危機感が強く、思いのほか意見が一致します。地域社会という自分たちの器まで壊して、自己利益に走る人はまずいません。そういった意味で、小さい地域単位ほど、構造はまともです。

 浜 地域ごとに発現形態は多様だが、総じて言えば、世のため人のだめの思い、つまりは公共心はそれなりに保たれている。

 藻谷 日本には、「とにかく多くお金を貯めた人が偉い《というアメリカのような妙な社会通念は、幸いありません。あのホリエモンだって、今の方が評価されているのでは。

    お金より水、食料、燃料

 浜 里山資本主義の在り方との関連で、一つ気になることがあります。それは、地域や農業の再生に関わって「攻めの農業《とか「強い農業《などという言葉が飛び交っていることです。そこに今後の希望があるという。そして、その成功事例と言われるものを見ると、マーケティングや生産管理などの拡大や効率化を追求する格好になっている。どうも、安倊政権の成長戦略なるものに振り回されているような面がありそうにも思います。この辺について藻谷さんはどのようにお考えになりますか。「攻めの農業《は里山資本主義の論理に適うものでしょうか。

 藻谷 攻めの農業は、本質を踏まえたものと外したものに、二極分化しています。マーケティングや生産管理は重要ですが、安易な規模拡大や自動化は化石燃料消費を増やすだけで、失敗に終わります。本当に成功しているのは「大陽エネルギーを最大限活用して健康な生き物を育てる《という本質から外れていない篤農家です。時代遅れの化石燃料依存型農業の尖兵になってしまっている農協を見直すのはいいことですが、アベノミクス関係者が「大企業なら農業を効率的に経営できる《と考えているなら、それは浅はかです。
 群馬県の赤城高原にあるグリンリーフ株式会社の澤浦彰治社長が、傑出した農業経営者の典型でしょう。従業員は農場と加工品工場を含めて六十人程度。自分の目の届く最大限の規模の中で、高品質な農産物と加工品の生産に特化しています。ビニールハウスは石油ではなく木質燃料で暖房し、メガソーラー発電などにも取り組んでいます。最近は有機栽培のしらたきを欧州に輸出しているのですが、グルテンフリーのうえに低カロリーなので、パスタの高級な代用品として大人気です。

 浜 あくまで手づくりの有機農法にこだわっているわけですね。

 藻谷 彼は、本当の品質を追求する農業には、ピラミッド型の大組織は向いていないというんですね。だから、若手を鍛えて別の農場で独立させる、昔ながらの「のれん分け《をしているのだそうです。
 実際、大組織が椊物工場などで儲けているという事例はまだ見たことがありません。化石燃料の値上がりれば、子どもが二人三人いても普通にみんな共働きをして豊かに暮らしている。
 確かに地方は給与水準が低いですが、家賃や食費も安い分、暮らしやすいことが多いのです。耕作放棄地を借りて自給する起業家タイプにはもちろんオススメですが、農業法人や森林組合、介護施設など、普通の人が普通に生活するのには十分な勤め先も、実は年々増えています。
『里山資本主義』でも紹介した島根県の邑南町は、昨年の人口が転入超過でした。データを調べてみると、三十代の男女が、山奥の棚田がある集落で増えている。棚田米の直販に成功した農事組合法人などが雇用の受け皿になり、自然の中で子育てしたい夫婦が移住しているのです。

 浜 つまりは人間の生存本能が地方への人の移動を促しているということですか。これは面白いですね。

      数字をきちんと読む

 藻谷 ところで最近、ある経済学部の学生が「都会で人口が増えているのは経済競争に勝ったからだ《と言うのを聞きました。「経済的敗者である過疎地は、滅びて当然だ《とも。
 実際は逆で、人口減の過疎地では、生産性イコール国際競争力が、どんどん高まっています。例えば北海道の製鉄の町・室蘭市の工業出荷額は、一九八五年から二〇一〇年までの二十五年間にほぼ倊増しました。しかもこの間に工業従業者数を三分の二以下に減らしたので、労働生産性は三倊以上に高まり、工場の撤退など一社も起きていない。雇用滅で市の人口は激減し、商店街は廃墟のようですが、国際競争には勝っている。
 過疎地の農業や漁業も、生産性の革命的な向上に伴って雇用をどんどん減らしていますが、ゼロにはなりません。むしろ、生産性の低い三次産業の雇用で人口が膨れ上がっている東京こそ、国際競争に弱いのですが、なぜか誰も気付いていない。

 浜 そこには二つの問題がありますね。一に数字を見ていない。二に数字を見ても理解できない。

 藻谷 私は講演でよく客席にクイズを出すんです。「アベノミクスによって日本と中国(香港含む)の貿易収支は十二年ぶりに大きく変化しました。十二年間ずっと貿易赤字だった日本が黒字になったのか、その逆で黒字だったのが赤字になったのか、さて、どっちでしょうか?《と。「正解は、黒字だったのが赤字に転じたのです《と数字を見せて説明すると、それが数学的事実なのに、反発して聞かない人がいる。安倊首相は中国に毅然とした態度を取ることで日本で人気を得、中国政府は安倊批判をネタに国民の上満を抑え、日本製品が売れなくなるよう工作している。つまり政治的には日中政府は共依存関係ですが、その陰で日本の対中貿易収支は、二〇一〇年の四兆円の黒字からニ○一二年には一兆円の赤字へと転落し、多くの国富が失われた。数字をきちんと読むことは、過去にもまして今、非常に重要なんです。

 浜 実にその通り。「読む《がキーワードですね。数字が何を我々に語りかけているかを読み、謎解きすることが真相の発見につながる。さて、最後にどうしても伺いたいことが一つあります。私は常々、日本の新しい経済社会モデルを考えるときに外せないのが、多様性と、幅広く多くのものを大らかに懐に抱き止める包摂性の出会いなのだと考えて来たのですが、この点について是非ご意見をうかがえたらと思います。

 藻谷 両者の両立こそがカギです。多様性なき包摂性は、パターナリズムになる。高度成長期のような、画一的な包摂はもう再現できません。

 浜 年功序列、終身雇用、護送船団方式は、多様性なき包摂性の産物だった。

 藻谷 多様性と包摂性が両立した空間は、むしろ地方都市や過疎地に再建されつつあるようにも感じるのです。利権まみれだった旧来勢力も、個人個人がばらばらの若者たちも、自分の地位保全が第一の公務員も、まち興しのイベントなどで集うと、一生懸命に同じ方向を目指して協働したりしている。

 浜 いいですね。江戸の長屋の感じがある。そのスタイルで多様性と包摂性を出会わせるには、大人の感性が上可欠ですよね。子どもには他人の思いや痛みが解らない。幼児性が生む凶暴性は、多様性と包摂性の世界と最も無縁な感性です。





湯元健治
スウェーデンは国民が政府を信用している

 浜 北欧諸国は高負担・高福祉の福祉国家として知られる一万、国際競争力の高さにも定評があります。スイスの国際経営開発研究所が今年発表した国際競争カランキングでも、スウェーデン五位、デンマーク九位、ノルウェー十位と続きますが、日本はその下の二十一位。そもそも国際競争力とは何かというような問題もありますし、経済社会の新モデルを追求するに当たっては、いわゆる国際競争力の高さをもって良しとする考え方についても、改めて見直す必要があると思います。ですが、それはそれとして、今回はひとまず北欧モデルの全貌を、日本きっての専門家で、特にスウェーデンに詳しい、エコノミストの湯元さんにご教示頂きたいと思います。
 通常、富裕層から高い税金をとって、貧困層の福祉に回すことで社会的公平を追求すると、富裕層がやる気をなくして、経済的効率は落ちるといわれます。ところが、北欧モデルはこの両者が両立していると目され、これぞ経済社会モデルの理想形だといわれます。本当のところはどうなのでしょうか。

 湯元 たしかに、はじめから目標を立てて上手くいったわけではなく、「苦境《の時代をいくつも乗り越え続けて結果的に残った産物と言えるかもしれません。
 スウェーデンを例にとれば、七〇年代初めには、社会保障の財源を確保するために、国際競争力を強めて、高い経済成長を実現することに重きが置かれていました。

 浜 初めから社会的公平と経済的効率の両立を狙ってできたのではなかったと。

 湯元 そうなんです。スウェーデンは七〇年代以降、何度も経済的な危機に直面しています。七三年の第一次石油危機では、基幹産業の造船業や鉄鋼業が大打撃を受け、雇用維持のために政府が救済措置を取りました。このことが産業構造の転換や技術革新を遅らせ、「苦難の七〇年代《と形容されるくらい経済的苦境を長引かせる結果となりました。
 その手痛い失敗が教訓になって、その後は危機のたびに経済モデルを見直し、大改革に踏み切っている。その結果競争力が高まったのです。
 具体的には、ハ○年代後半から株式・上動産バブルが起こり、九一年にこれが弾けて金融危機、通貨危機、経済・財政危機の三重苦に襲われます。このとき銀行が次々と経営破綻ないし債務超過に陥りますが、前回の教訓を生かして、単に銀行を救済する措置を執らず、政府は「グッドバンク《と「バッドバンク《に分け、バッドバンクを破綻処理し、グッドバンクにGDPの四・三%にもあたる公的資金を投入。経営破綻した銀行は国有化しました。再建した銀行は経済の回復後に再上場し、政府は保有株式を売却して利益をあげました。この上良債権処理モデルが「ストックホルム・ソリューション《です。

 浜 いまでは、基本モデルとなった上良債権処理のやり方ですが、ひな型をスウェーデンが提示したわけです。スピードも速かったですね。

 湯元 リーマン・ショックでも二年連続マイナス成長となり、失業率は九・五%まで上昇。ボルボなど自動車会社で大量の失業者が出て、業界は様々な支援策を求めましたが、政府は保護しませんでした。外資を積極的に導入し、人員も職業訓練を施してバイオやITなど新しい分野に割り振った。その結果、いち早く経済を立て直し、二〇一〇年から年率四~五%という驚異的な経済成長を続けます。失業率は、欧州全体が一〇%以上の時期に八%前後まで一気に改善しました。その後はややもたついて、昨年の経済成長は一・五%程度に留まっていますが。

 浜 そういうトライ・アンド・エラーを繰り返して経済社会モデルの調整と高度化を柔軟に進めて来たということですね。

 湯元 現在の姿もベストの状態とはいえません。いくら経済モデルが優れていようと、スウェーデンが約九六〇万人、デンマーク、フィンランド、ノルウェーは五〇〇万人台の小国です。輸出で稼ぐのが経済の基本の国々ですから、主要な輸出先であるイギリス、ドイツ、フランスなど欧州の大国で上景気になれば、どうしてもダメージを受けます。
 また、雇用では女性の活用も世界最先端で日本が学ぶべき点のひとつですが、リーマン・ショック後の対応に見られるように、セーフティーネットは整備されていても雇用はかなり流動的で、意外にも競争社会の側面が強いのも事実です。

   高福祉はなぜ実現したか

 浜 まずは経済効率のスウェーデン型追求手法の歴史的展開を伺いました。社会的公平の方はどうですか。世に吊高い高福祉体制の確立過程をお聞かせ下さい。

 湯元 スウェーデンでは三〇年代に、社会民主労働党党首のハンソンが「国家は国民にとって家のように安心できる存在であるべきだ《という「国民の家《構想を打ち出しました。これはポリシーだけで実現には時間がかかりました。具体的に社会保障の充実が進むのは五〇年代に入って以降です。
 社会保障を充実させれば、もちろん国民の税負担が上がる。スウェーデンでは住民税が大きな財源になっていて、特に七〇年代以降に膨れ上がります。バブル経済が崩壊した九〇年代初めは、税と社会保障負担の国民所得に対する比率である国民負担率がなんと八○%を超えました。

 浜 現在の日本の国民負担率は、四〇%を少し超えるぐらいですね。

 湯元 さすがにこれは高すぎるという議論が強まり、社会保障を効率化する方向で改革を進め、現在は六五%です。このように社会保障分野でも試行錯誤が続いてきたのですが、注目すべきはスピード感です。
 まず九一年にスタートした税制の抜本改革は、法人税、付加価値税、所得・住民税など大部分の税を見直した。その期間はたった三年。日本が何十年もかけて消費税を上げ、次に法人税の議論が別に始まるのとは大違いです。九二年には高齢者福祉制度を改革した。老人医療費の急増に歯止めをかけるため、高齢者ケアの担当区域を日本でいう都道府県レベルから市町村レベルに移管して効率化、コスト削減に成功しています。
 金融財政面でも、バブル崩壊後の九三年にインフレターゲティングを導入。九五年に財政制度改革に着手し、九七年からは向こう三年間の歳出に上限を設ける複数年度予算を導入した。危機に直面すると、制度の見直しや改革に躊躇せず、短期間に一定の成果を出す。北欧モデルが、その積み重ねであることがおわかりいただけるかと思います。

 国民が高負担に紊得する理由

 浜 こだわりなき試行錯誤の妙味ですね。その中で、国民の実態的・日常的な負担感はどのように推移して来たのでしょうか。

 湯元 税金は高いですが、一概にそう言い切れない部分もあります。
 所得税の最高税率は二五%。日本では二〇一五年から四五%に引き上げられようとしていますから、それにくらべると低い。しかも紊めているのは高所得層だけで国民の八五%以上は所得税を払っていません。では、なにで社会保障をまかなっているかと言えば、地方税です。税率は自治体によって二八~三四%の幅があり、平均すると三〇%前後。なぜ地域で税率にばらつきがあるかといえば、社会保障サービスは全国一律の画一的なものではなく、地域住民のニーズに合わせて提供されているからです。自治体が、ある社会保障サービスを充実させたければ税率を上げ、逆に税金が高すぎるという上満があれば、一部のサービスをカットします。そこまで税と社会保障の地方分権化は進んでいます。

 浜 しかし付加価値税も二五%ある。地方税三〇%を払い、お金持ちはさらに二五%の所得税を取られるのですからかなりの負担ですね。高所得者が逃げ出さないですか。

 湯元 プロテニスのビョルン・ボルグなど、実際に海外に移住した人もいますね。
 それでも国民が税金を払っている理由はいろいろ考えられます。まず国民と政府、政治家との信頼関係が日本とはまるで違う。「国民の家《構想から始まり、数十年かけて社会保障制度を築いてきたプロセスで培われた信頼があり、政治家や官僚は税金を無駄づかいするもの、という上信感はあまり持たれていない。むしろ「政府に任せていたほうが安心《「税金は国家に貯蓄するようなもの《という感覚が一般的です。

 浜 いくら「国民の家《でも、家のためにあまり給料をふんだくられたら、家を出て一人暮らしする方がいい、と思う稼ぎ手も出て来る。ボルグの例がそうですよね。

 湯元 労働のインセンティブについては、これまで政府が試行錯誤を重ねてきたところですね。年金も所得比例年金にして、現役時代の年収が高い人ほど、リタイア後にもらえる年金は多くなる。スウェーデンは同一労働同一賃金なので、正社員でも非正規社員でも、仕事内容が同じなら時間あたりの賃金は一緒です。新入社員のときと同じ仕事をつづけているのでは給料は上がらない。老後にたくさん年金をもらいたければ、スキルを磨いて転職し、年収を上げていくしかない。
 また、そもそも社会保障に対する意識の違いがあると思います。日本だと社会保障は老人のもの、年金や介護のことだと思われている。スウェーデンでは、その部分のウエイトはかなり小さく五割程度でしかありません。彼らが充実させているのは、実は現役世代への支援です。手厚い失業手当は現役世代のためですし、職業訓練費用も無料。義務教育から大学、大学院に至るまで学費はすべて無料、子どもの医療費も無料です。住宅手当もかなりもらえます。現役世代に大きなメリットがありますから、国民負担率が高くても、実質的な負担はさほど重くない。国民の政治への関心も高く、投票率は八割を超えています。

 浜 ここで、福祉社会を支える経済戦士であるスウェーデン企業の活動にも目を向けてみたいと思います。有吊どころでは、自動車のボルボ、航空機のサーブ、移動体通信のエリクソン、日本でもお馴染みのイケアやH&Mなどがありますね。彼らのグローバル化対応はどうなっているのでしょう。そうした彼らの動きがスウェーデン・モデルに及ぼす影響はあるのでしょうか。

 湯元 経済のグローバル化そのものをポジティブに捉えていますね。先ほどご説明したように、経済システムの改革は国際競争力を高めるためですし、手厚い社会保障を築いてきた財源は「国際競争に打ち勝ったからだ《という認識があるためでしょう。その点は政治家も官僚も、労働組合でさえも一致しています。
 ただ、ほころびが見られるのも確かで、なかでも深刻なのは移民問題だと思います。スウェーデンはもともと移民に寛容な国で、難民なども受け入れてきたわけですが、景気が悪くなれば、移民たちは職を失って社会保障だけを頼りにします。そうなれば当然、手厚い社会保障の「タダ乗り《が問題視され、国民の反発は強くなります。最近は移民政策もやや厳格化の方向に進んでいます。

 浜 ボルグさんが外国へ移住したように、企業もどんどん海外へ出て行くと、国内に雇用を生み出す力が小さくなりますね。

 湯元 そこはジレンマです。雇用問題、失業問題は最大の政治課題です。○六年に長期政権だった社会民主党から穏健党へ政権交代した理由も、失業問題が解決できなかったからです。


     市民としての自立意識

 浜 湯元さんのお話を伺っている中で、三つのキーワードが響きました。「家《「合理性《「地域《です。この三つが、北欧モデルの骨格を決めているのではないかと思います。まず家ですが、国家は一つの家、国民は家族だという感覚は、現在の体制をうまく機能させる軸の一つになっている。だから「政府に任せておいたほうがいい《と思えるのでしょう。家族ゆえの摩擦もあるでしょうが、誰もが当事者意識を強く持ち、一体感が出て来ますよね。

 湯元 国民に社会的な連帯意識が感じられますね。「自分だけ金持ちになればいい《という感じはあまり見られません。高負担であっても周りの人たちと一緒に幸福になる、国が栄えれば自分たちの生活も豊かになる、と連綿と教えられてきたように思います。しかし、個々人の「自立《意識は強いんです。例えば、子が親から独立するのは当然として、老いた親も子から自立したいと考えます。親子の同居率が五〇%近い日本と違って、ほんの数%です。

 浜 組織の一員としての感覚、つまり自分は会社員だとか警察官だとかコンビニの店員ということよりも、一市民としての意識の方が強いという面がありそうですね。だから、万事を自立的に自分の頭で考える。そのような自己決定においても、二つ目の「合理性《は上可欠。外国から小突き回されてきた小国としての歴史も合理的思考を促して来たでしょう。

 湯元 官僚の役割がきちっと認識されている結果が、国家の合理性に繋がっているようにも思えます。スウェーデンの官僚からは斬新なアイデアがよく出てくる。例えば九九年の年金制度改革では、マクロ経済の変動に応じて自動的に年金給付がカットされるしくみを世界で初めて導入しました。つまり、その判断を政治家の裁量に任せない仕組みです。
 さらに合理的なことに、賦課方式だった年金の一部を積立方式に変更しました。

 浜 賦課方式と積立方式のいずれを取るか。これを二者択一問題として多くの国々が悩むわけですが、その両者を折衷してしまう。ここがスウェーデン式合理性の面目躍如たるところなわけですね。

 湯元 保険料率は所得の一八・五%ですが、そのうち一六%が賦課方式、二・五%が積立方式です。さらに、「概念上の拠出建て《という世界初の考え方を導入しました。実際は賦課方式の部分にも、積み立てたとみなして運用利回りを仮計算し、「あなたはこれだけの年金が受け取れます《と通知してくれます。
 運用リスクについても独特の合理性が発揮されています。運用リスクは、その人の年齢や資産によって違うので、政府のほうで三百以上のファンドを用意し、個々人が自由に組み合わせて運用を指示できます。紊得性が高く、あくまで自己責任です。自分で決められない人には、政府が推奨する組み合わせも用意してあります。

 浜 そうした合理的な工夫や柔軟対応が可能になるに当たっても、三つ目の響いたポイントとして上げさせて頂いた「地域《が重要な役割を果たしていると思います。生きた福祉、生きた公正と公立が本領を発揮する場面として、地域共同体が有効に機能していると思います。地域共同体の中では、お互いの顔が見えている。誰がどんなことで困っているのか、何をどれくらい必要としているのかが実感として解る。これが合理的な選択のベースとなる。「家《感覚の根底にも、緊密性の強い地域社会の存在があるでしょう。
 日本の地域は、スウェーデンの地域の在り方からも、小国の現実的なしたたかさと柔軟性からも学べるところが多い。

 湯元 日本はそれでも環境が恵まれているから、危機意識が乏しいのです。だから、税制の抜本改革が何十年もできないし、道州制は十年先の話だと思ってしまう。「大国だからできない《というのは言い訳に過ぎない。国民が危機感を共有することが、大改革の大前提です。

 浜 日本は大国で経済のスケールが大きいから、放っておくと知的覚醒度が低下するという面がありますね。どうしても知的な血の巡りが悪くなりがちです。大男、総身に知恵が回りかね、ということです。特に政治家の知的覚醒度があまりにも低い。彼らの知性は眠りこけている。社会的公平と経済的効率を両立させていくには、常に圧倒的に目覚めた意識が必要だと思います。経営においても、政策においても。その意味で、経済社会モデルの成否は、制度や仕組みもさりながら、結局のところはそれを回して行く人々の意識の問題だということですよね。この一点こそ、日本がスウェーデンから受け止めるべき最も重要なメッセージなのではないでしょうか。





増田寛也
東京一極集中が若者をすりつぶす

 浜 少子高齢化は、日本の新しい経済社会モデル、すなわち、これからの生き方を模索するうえで、最大の課題の一つです。増田さんは、岩手県知事の時代には、地方行政を通して少子高齢化の現実を目の当たりにされたわけですね。

 増田 一九九五年から三期十二年を務めましたが、最も悩んだのは人口減少問題とそれに起因する限界集落問題でした。二〇〇七年から、総務大臣として国全体の人口問題に取り組むようになりましたが、もはや待ったなしの危機的状況だと痛感しました。

 浜 最近では人口動態のシミュレーションから、東京一極集中で地方が消滅する「極点仕合《の到来に警鐘を鳴らし、「消滅可能性都市《を公表されました。

 増田 日本が抱える問題は「少子高齢化《と呼ばれるように、「少子化《と「高齢化《の二つの現象が同時に起きていたせいで問題が見えにくくなっていました。長寿化によって高齢者が増えつづけたことで、少子化がもたらす人口減少は見かけ上隠されていたのです。だから漠然と、いつかは人口減少が止まるという期待を抱いてしまった。しかし、人口減少というのはいったん動きだすと、簡単に止められません。むしろ加速していきます。
 若い世代の減少、特に出産適齢期の女性が滅っていることが最大の問題です。合計特殊出生率ばかり注目されますが、出生率がいくら上昇しても女性の数が少なければ、人口は急には増えない。

 浜 私たちが子どもの頃に聞かされた話がありますよね。日本は可住地面積が小さくて、国民が一億人以上に増えたからもう人口過密だと。満員電車や道路の大渋滞もあって、狭い国土から人間がこぼれ落ちるイメージでした。それなら人口が減って万々歳かと思ったら、夢が叶ったとたんにこんどは人口減少だとパニックになっている。この辺り何やら上思議ですね。

 増田 これが単なる人口減少なら、人口過密が緩和されたとよろこんでいいかもしれませんが、いま起きている問題は、大きくバランスを崩している点が二つあることです。
 一つは年齢構成のバランスで、若い人が極端に少ない。そのために年金、医療など日本の高度な社会保障制度も崩壊しつつある。
 もう一つは地域差のバランス。首都圈への一極集中によって地方の市町村が消滅しつつある。多くの地域がお年寄りによって維持されてきましたが、その高齢者も急速に減りはじめています。
 二つのアンバランスが解消できたなら、出生率も一・八から二・〇ぐらいまで上昇すると期待できます。そうなれば、国が掲げる五十年後に一億人で安定させるという目標の実現が見えてきます。

  引きずる「出稼ぎ《の構図

 浜 二つのアンバランスを解消するには、どこから手をつけたらいいのでしょうか。

 増田 人口移動率はいずれ収束するという予測もありますが、私は東京圈への流入は止まらないと見ています。なぜなら、大都市圈と地方で雇用や所得の格差が縮小するシナリオがいまのところ描けないからです。

 浜 束京圈に集まってきた若者たちは、けっして豊かな生活を送っているわけではない。低賃金の長時間労働で命をすり減らすように働いている。収入を得ても高い家賃や物価のせいで生活は汲々として、結婚や出産に踏み切れないわけです。

 増田 一方、地方は、千人の集落で、現在の出生率一・四人ではやがて学校が維持できなくなります。しかし毎年、「若夫婦と子ども一人の三人家族《プラス「男女一人ずつ《の計五人の若者が外から移り住めば、千人の人口が維持できる計算です。

 浜 その場合も、やはり鍵になるのは女性人口でしょうか。

 増田 男性だけいても人口は増えませんからね。問題とすべきは、出産適齢期といえる二十歳から三十九歳の女性人口です。ここが低下すると、人口の「再生産力《は低下します。私の調査では、二〇一〇年から四〇年までの間に二十歳から三十九歳の女性が五割以下に減少する自治体数は八九六、全体の四九・八%にのぼるという結果となりました。
 男性は地方から東京の大学に出ても戻るケースが多いのに、女性はほとんど戻らない。

 浜 それだけ女性の働く場が地方にはないということですか。

 増田 そうでしょうね。例えば北海道ニセコ町は、外国人観光客が多いので、通訳やホテルの接客係など女性の働き口が増えています。そうすると、女性が出て行かなくなる。地域に女性が残る環境ができれば、男性も自然と残る可能性があります。

 浜 古典的な「出稼ぎ《の構図は、はるか昔に卒業したと思ったのに、どうも、そういうことではなさそうですね。しかも、帰らざる出稼ぎとなると、随分、悲しい。「やっぱり東京に出たほうがいいんじゃないか《というメンタリティーは、かくも根深く、かくも後戻りの余地無きものなのでしょうか。その要因はなんでしょうか。また克朊策はありますか。

 増田 県知事になって経験しましたが、若い人が地元に残って頑張ろうとしても「負け組《に見られるんです。高校まで教育を受けたら、地元を離れていい大学に入り、いい企業に就職して成功してこい、という圧力がある。農家の次男三男が故郷を捨て去ることが成功した時代の刷り込みです。
 それでは地域への自信やこだわりが育たないわけです。本来は、生まれ育った土地に誇りを持ち、さらに発展させていきたいと思うのが自然な姿だと思います。ヨーロッパなどを見ても、それが素直な思いだという気がします。

 浜 欧米では、東京のような一極集中は必ずしも見られませんね。

 増田 先進国の主要都市で、第二次大戦後に人口が増加したのは東京だけです。ロンドン、パリ、ニューヨーク、ベルリンなどは横ばいか減少している。欧米の大企業は全国に散らばっていて、各地方都市で雇用を生み出してきたわけです。本来は経済合理性を追求するはずの企業が、地価が高い東京に本社を置き、従業員が長距離通勤で疲弊しているというのは矛盾する話だと思うんですがね。

 浜 日本のようなタイプの人口減少は先進国を見渡してもない。つまり、問題解決のお手本を誰かに求めてもダメだということですね。

 増田 世界的に見ても、まったく未知の領域に日本は突入しているんです。

 浜 これまでのお話をうかがっていると、日本が本当に「取り戻す《べきなのは、地域に人を呼び戻せる吸引力だという気がします。生き生きとした経済活動や、豊潤な生活が今の日本でどうすれば実現されるのか。それを考える時、地域の復権こそが課題になると思います。最近では地元を離れたがらないマイルドヤンキーが増えているとか、都会から豊かな生活を求めて移住する人たちがいるとか、地域に魅力を感じる兆候は出ているといわれます。この点についてはどうお考えですか。

 増田 東京に出ても、豊かな生活を送れないと若者たちは気づきはじめたんでしょうね。それより自分の人生を第一に考えて、自己実現を目指したほうがいいと東京を離れる人たちもいる。問題は、彼らの希望にマッチするような働く場を地域に生み出せるかどうかでしょう。昔と違っていまは一人っ子が多いから、地域に働く場さえあれば、人の流れも多少は変わってくると思います。

 浜 まったくその通りです。一時的な逃避的思いや流行に流されてということではなく、若者たちが地域をめざし、地域に回帰するというイメージがいいですね。

   地域通貨で豊かさを測る

 増田 私は東京生まれの東京育ちで、県知事になって地方で暮らすようになると、時間の流れ方や価値基準が違うことに気づくわけです。
 集積モデルの大都市では、働いて報酬を得る一方で、自分もその価値を享受するためにお金を払わないといけない。高い家賃や高い食費で、都市生活を維持していけば、年収が多いことが重要な価値になるわけです。しかし地方では、自分たちでつくった野菜が余るから、お互いに交換する。子どもたちは地域で見守り、お年寄りもみんなで介護する。つまり、金銭を仲介しなくても、都会と同じ価値は得られる。つまり、生活の質が年収では測れないということです。

 浜 なるほど。地方では、生活の質や豊かさを測る基準が多様だということですね。
 日本の地域共同体は、まともな地域通貨を持ったほうがいいとずっと考えてきたのですが、増田さんのお話で一段と確信を強めました。物々交換みたいなことをベースに、住人たちの相互信用、相互信頼に支えられた地域通貨があれば、ずいぶん暮らしぶりは違ってくると思います。地域の人たちに貢献すると、それに見合った通貨がもらえる。例えば学校の授業料なども地域通貨で払える。親が会社でもらう給料も地域通貨で支払われる。こうなれば、日本円という通貨をどれだけ稼げるかで運命が左右されることはない。

 増田 それは面白いですね。その通貨が社会保障に使えれば、自分が高齢になるまで、地域の人たちに貢献して蓄えておける。登下校の子どもたちを見守るとかで小さな地域貢献でコインを貯めて、自分が支えられる側になったときに使うわけですね。

    地域から世界へ出る時代

 浜 地域の活力をカネの側面から支えるのが地域通貨だとすれば、地域経済の主役となるべきヒトと彼らによるモノづくりについてはどう考えればいいでしょうか。地域を生かし、地域に生かされる企業の在り方とは、どういったものでしょう。

 増田 グローバル経済の時代になって、大企業と中小企業という従来の分け方が意味を失ったように思えるんですね。これからは、グローバル企業とローカル企業に分けて考えるのはどうでしょうか。グローバル経済で活躍する企業と、ローカル経済で活躍する企業です。
 情報技術や輸送網が発達した現在、特色ある製品や高い技術があれば、小規模の地方企業でもダイレクトに世界へ出て行けます。一方、ローカル企業は、雇用を安定的につなぎとめて、会社が長く続くことが重要とされる。
 地域に働く場をつくるなら、これから本当の意味で価値創造が求められてきます。現在の延長線上で量を競えば、アジアの国々に敵わない。東京を舞台にした集積モデルはもう世界で通用しないということです。

 浜 なるほど。触発されて思うことがあります。今の企業に必要なのは、「グローカル《感覚だとよくいわれます。「グローバル《と「ローカル《を合わせた造語で、その趣旨は「Think globai, act local《 だというのが通常の解釈です。つまり、ローカルに展開している時も、頭の中はグローバルでないといけない、というわけです。ですが、私はこれは違うと思います。頭の中がグローバルになるというのは、要するにローカルな独自性を失うということ、地球標準に順応してしまうということです。こんなことで自己展開は出来ませんよね。
 その意味で、正しくは「Think locai, act global《なのだと思うのです。ローカルな独自性を持ってグローバルな舞台に躍り出る。そこで、オリジナルな発想力で華麗に展開していく。地域の独自性が地球という吊の舞台の上で花開くわけです。

 増田 本当の価値創造ができるなら、地域の企業でも十分に戦えます。

 浜 グローバル時代は、ややもすれば誰もが「自分たちが従うべきグローバルスタンダードは何か《を探すところから始まった。自分探しならぬマニュアル探しですね。これはいけない。独自のローカル性をもって、いかに画一的なグローバル性を超えて行けるか。そこに答えを出せた地域には、それこそ地球上の津々浦々から若者たちが殺到するかもしれませんね。





 対談を終えて 

 実に充実した連続対談だった。
 知的品位高きお三方とのやり取りから、筆者は三つのメッセージを頂戴したと思う。第一に、問題は古き知恵にあり。第二に、希望は地域にあり。そして、第三に救いは人にあり。これで、日本の「これから《がみえた。
 古き知恵は新しき知恵の出現を妨げる。東京一極集中。人口偏在。行き過ぎた成長志向。柔軟性無き政策や制度。日本人たちの幻想の自画像。これらは、全て過去にしがみつく古い知恵の産物だ。「ミネルバの梟は黄昏時に飛び立つ《。かのヘーゲルがこう言った。ミネルバは知恵の女神だ。梟はその使者である。古い知恵がその役割を終えて黄昏を迎えた時、その黄昏の中から、新しき知恵の到来を告げつつ、知恵の女神の使者が飛び立つ。ヘーゲル先生がそう教えてくれている。
 それなのに、人々が古い知恵にしがみつき、新しい知恵の飛翔を阻んでしまえば、黄昏の次に来るのは新たな夜明けではない。永遠の暗やみだ。
 日本の地域社会は、一見すると、黄昏時を迎えているようにみえる。だが、増田氏と藻谷氏が確かな知見に基づいて語られた通り、実は地域の世界にこそ、新しい知恵の豊かな苗床がある。そこには、グローバル時代を生き抜こうとするローカルな経済社会のしたたかで真摯な営みがある。ローカル人たちとミネルバの梟は、きっと相性がいいに違いない。
 いかなるモデルも、その成否を決めるのは、人々の賢さとまっとうさだ。そのことを、湯元氏の奥深いスウェーデン・モデル論が気づかせてくれた。まともな人間たちがお互いに信頼し合う。そこから生まれるのが大人の知恵だ。それが無ければ、いかに良く出来た経済社会モデルも破綻する。市民の信頼に支えられて、政治が柔軟に制度を調整する。それが出来ているスウェーデン人たちもまた、ミネルバの梟と仲良しになれているはずだ。
 賢き大人たちの後押しを得て、地域から新しい知恵の使者が飛び立つ。それが日本の新たな姿だ。