(日曜に想う)ゴジラと保守、破壊と創造 

   編集委員・曽我豪


    2016年8月28日05時00分朝日新聞

 


 映画「シン・ゴジラ《(庵野秀明総監督)を見た。前評判に違わず、良く出来た政治ドラマである。戦前と同様、根拠なき楽観論は悲劇をもたらす。だが危機に鍛えられてこそ成長も出来る。政治の影と光の両方が等分できちんと描かれていた。日本の将来を論議する上で主権者教育の格好の教材となろう。さすがに反対する政治家はいないのではないか。

 初代の「ゴジラ《(本多猪四郎監督)も見た。シン・ゴジラのモチーフが東日本大震災だったとすれば、初代が生まれたのは1954年、第五福竜丸が「死の灰《を浴びた年である。水爆実験で目覚めた太古の怪獣が東京を襲う。国会の場面もある。男性議員が世論や外交への影響を恐れて情報公開を渋る。女性議員がだからこそ堂々と公開せよと迫る。怒号のなかで場面は終わる。

 ただ、54年と今が重なるのは原子力の問題にとどまらない。保守政権による国家体制の作り直しで響き合う。

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 54年は、第5次まで長期政権を誇った吉田茂内閣の最後の年である。自由党の少数内閣だった。講和・独立と新憲法公布を成し遂げたが、朝鮮戦争はじめ冷戦の激化で明らかに時代は変わっていた。

 破壊活動防止法、電力・石炭のスト規制法、独禁法緩和。それが再改革か逆コースかは別にして、戦後の民主的諸改革を修正して中央集権的な体制を作り直そうとした。その仕上げの年だった。

 国会は混乱を極めた。教職員の政治的活動を制限しその中立性を強調する「教育2法《と、自衛隊を創設する「防衛2法《が相次いで成立した。だが左右に分かれていた社会党は徹底抗戦を挑む。議長席で乱闘が起き、警官隊が国会に出動する。毎日、読売、朝日3紙は共同声明を発表、左右社会党の「集団的実力《と政府・与党の「世論を無視した独善的な態度《の両方を非難した。

 つまりゴジラの生まれた年は、今日に至る政治の諸問題の基本構図が定まった年だったのだ。自由党の憲法調査会(岸信介会長)が改憲要綱を発表、保守系の改進党が続いた。そして造船疑獄で世論は沸騰、吉田内閣は総辞職し、国民的ブームのなかで改憲と再軍備を掲げた鳩山一郎内閣が登場して54年は幕を閉じる。

 同時代の政治記者はどう見ていたか。「戦後保守政治の軌跡《(岩波書店)で、内田健三・元共同通信論説委員長は証言する。「講和後の国の進路の選択というテーマをめぐって、社会党は左派が主導権をとって左へ左へという動き方をしていく。一方保守のほうは政権の座にある吉田のリアリズムに対して、鳩山が帰ってくる、重光改進党が出てくるという形で、右へ右へと引っ張ろうとする。政治勢力が左右に大きく割れていく《

 だが鳩山の改憲論は時代の主流にならなかった。後藤基夫・元朝日新聞東京編集局長は、経済再建を優先した吉田の判断と情報収集力を評価して喝破する。

 「その鳩山ブームの中に再軍備もあると彼(鳩山)は見まちがえたんだ。……吉田というのはそういうことはまちがえない、ずるいから《

 54年は天皇制の節目の年でもあった。

 戦争責任に絡んだ退位論は講和を最後の契機に収束していた。そして「人間宣言《と並んで象徴天皇制を定着させた昭和天皇の地方巡幸は、終戦の翌年から沖縄を除く全国で続いて、この年の北海道を最後にその旅は終わった。

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 安倊晋三首相はゴジラと同じ54年生まれである。自民党は翌55年の保守合同で生まれた。同時に、左右社会党は55年衆院選で3分の1を超えて統一され、56年参院選でも同じハードルを越えた。55年体制の誕生に他ならない。

 今夏の参院選でその戦後政治の基本形は壊れたかもしれない。だが憲法と皇室典範の改正問題から自衛隊や主権者教育のあり方まで、首相がいかに正しく時代を読んで何を残し何を変えるか。保守の新たな国家像が現実に問われる局面である。「シン・ゴジラ《で主人公の内閣官房副長官が嘆じたように、スクラップ・アンド・ビルドの確かさが今も昔も変わらぬ日本政治の要諦なのだから。