(時事小言)

  民主主義の後退 正統性の礎を失う世界

    藤原帰一 (国際政治学者)


     2018年10月17日16時30分 朝日新聞夕刊



 気がついたら、民主主義が後退していた。

 まず、プーチン政権のもとのロシアでは、大統領選挙で選ばれるという外形こそ保っているものの、立法府による行政権力の統制が弱まり、司法の独立も搊なわれた。政府の批判は弾圧され、ジャーナリストが暗殺された疑いも生まれている。ロシアの議会制民主主義は形骸化した。

 エルドアン大統領のもとのトルコでも、やはり大統領選挙や議会選挙が行われているとはいえ、憲法改正によって大統領に権力が集中し、立法と司法の役割は低下した。ロシアと同様にトルコでも、民主政治は形だけのものとなった。

 民主化が後退する一方で、権威主義体制における社会統制は強化された。中国では長期拘禁が繰り返され、中国出身の国際刑事警察機構(ICPO)前総裁孟宏偉は行方上明となったまま国家監察機関の取り調べを受けていると伝えられている。新皇太子のもとで専制支配が強まったサウジアラビアでは、現体制に批判的な報道を続けたジャマル・カショギはイスタンブールのサウジ総領事館に入ったまま行方上明となり、総領事館のなかで殺害された疑いが持たれている。

     *

 スタンフォード大学のラリー・ダイアモンド教授がその著書「民主主義の精神《において民主主義が世界的に後退していると指摘したのは2008年のことだった。この指摘を受けて英「エコノミスト《誌は民主化指標を毎年発表してきたが、2017年のデータも含めた最新版でも民主主義の後退を指摘している(2018年1月31日付)。指標の選択やデータについて議論はあるだろうし、民主主義かどうかという判断には価値観が入り込む危険がつきまとうが、それでも世界的な民主主義の後退が既に定着したことは間違いがなさそうだ。かつてサミュエル・ハンチントンが指摘した民主化の「第三の波《は遠い過去のものとなってしまった。

 さらに、民主化の追求は犠牲を伴うことがある。もちろん民主主義にはそれ自体に普遍的な価値があり、1986年のマルコス政権崩壊や1989年の東欧諸革命など武器を持たない国民が立ち上がって独裁政権を倒す姿には胸を揺さぶられる。だが、2011年のアラブの春がもたらしたのは民主主義ではなく、リビアやシリアにおける苛烈(かれつ)な武力弾圧と戦争、あるいはエジプトにおけるような権威主義体制への回帰であった。現在のロシア、トルコ、中国、あるいはサウジアラビアの権力に対して一般国民が立ち向かうことがどれほど厳しい選択なのか、説明するまでもないだろう。

 アメリカ政府の役割も変わった。ビル・クリントン、ジョージ・W・ブッシュ、さらにバラク・オバマと、3代のアメリカ大統領はいずれも民主化支援をアメリカ外交の柱の一つに掲げてきた。世界の民主化を進めるというアメリカの自画像は誇張と厚かましさがともなうとはいえ、たとえばミャンマーにおける民政移管においてアメリカの果たした影響は無視できない。

 だがトランプ政権は、ドイツやカナダなど民主的な同盟国と衝突する一方で、ロシア、サウジアラビア、さらに北朝鮮などの民主主義とはほど遠い諸国との間では友好的な首脳会談を行っている。権威主義体制の支配者を外交の相手に敢(あ)えて選んだかのように見えるこの外交姿勢ほど民主化支援政策の後退を明示するものはない。

 アメリカによる民主化支援政策の後退は、世界規模における民主主義の後退、さらに権威主義体制の相対的な安定という現実に対応した外交政策の転換であった。理念ではなく実利に基づき、どのような国や政権が相手であっても、外交交渉を通じて自国にとって有利な成果を獲得することを目指す。際だってクラシックな国際政治の認識がここにある。

     *

 私は、民主主義の政治的な表現は、指標に集約しがたい多様性があると考える。世界各国の民主化がアメリカ外交のために達成されたとも思わない。それでもなお、民主主義の後退と権威主義体制の安定という国際政治の動向には懸念を持たざるを得ない。

 それは民主主義が法の支配と国際関係の安定の基礎にあるからだ。どれほど多様であっても民主主義は政治権力の正統性の基礎であり、どれほど紛争を伴ったとしても民主主義を共有する諸国は国際体制のなかにおける紛争解決を模索してきたのである。

 権威主義体制が優位となった世界では、そのような正統性も国際体制の安定も期待することはできない。権力闘争と力の均衡の支配する古風な国際政治の復活が、つい目の前に迫っている。(国際政治学者)