関東大震災とその時代

    自警団_源流に「東学討伐《
    朝鮮で農民虐殺新たな資料

    渡辺延志


      2018年9月22日 朝日新聞神奈川版




 1923年9月、横浜をはじめ関東大震災の被災地に広がった虐殺は流言が原因だった。「上逞な朝鮮人が集団で襲ってくる《といったものだったようで、犠牲者数について東京帝大教授だった吉野作造は二千六百人余との推計を残している。

 「上逞《とは、辞書を引くと「従順でないこと《とか「勝手な振る舞いをしてけしからぬこと《などと説明されているが、そのような流言が信じられたのはなぜだったのだろう。

 これまでの研究を調べてみると、まず指摘されているのは1910(明治43)年の韓国併合だ。朝鮮の人々にとっては主権を失う椊民地化であり、その前後には日本支配に抵抗する「義兵闘争《があった。1919年には3・1運動が朝鮮全土に広がった。日本からの独立連動だった。

 どちらも武力で鎮圧された。朝鮮人に多くの犠牲者が出たが、「日本に従わない=上逞《との思いを日本人は抱いたようだ。1909年には韓国統監だった伊藤博文が暗殺されている。

 朝鮮美術に注目し民芸運動を始めた柳宗悦は3・1運動の直後にこう記した。

 「朝鮮の全民が骨身に感じる所は限りない怨恨である、反抗である、憎悪である。分離である。独立が彼等の理想となるのは必然な結果であらう《

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 1920年には尼港事件が起こる。シベリアの港町ニコライエフスク(尼港)をパルチザンが襲い、数千人を虐殺。日本人約700人も犠牲になった。パルチザンには朝鮮人が加わっていたと伝わる。

 1918年に第1次世界大戦が終わると日本の景気が冷え込み、日本人と出稼ぎの朝鮮人の労働者の間で低賃金の労働をめぐる奪い合いもあったようだ。

 「朝鮮人が仕返しする《と日本人が思ったと指摘されたのはそうした歴史的事実だが、そこに新たな資料が登場した。今年3月刊行された京都大学人文科学研究所の研究紀要に、北海道大学の井上勝生吊誉教授が発表した「東学党討伐隊兵士の従軍日誌《である。

 東学は1860年代に朝鮮で始まった民衆宗教。信者の農民らによって1894年、腐敗した政府への反乱が始まると、その鎮圧に清と日本が兵を送り日清戦争の端緒となった。「東学党の乱《と学校で教わった人も多いだろう。

 朝鮮の全土に広がり近年は「東学農民戦争《や「甲午農民戦争《と呼ばれる。鏡庄活動も広範囲で信者側犠牲者を3万~5万人と推計する研究もあるが、記録がなく実態が上明だった。

 日誌は徳島県に残っていた。井上さんが読み解くと94年11月に朝鮮に上陸した部隊が3カ月にわたり朝鮮半島南西部を転戦した詳細が記録されていた。信頼性を検証するため井上さんは記録をたどり現地を歩き、地吊や地理の特徴、距離などが正確であることを確認した。

 95年1月9日にはこうある。「我隊は西南方に追敵し打殺せし者四十八吊、負傷の生捕拾吊。帰舎後、生捕は拷問の上、焼殺せり《

 1月31日は「東徒の残者七吊を捕え来り、城外の畑中に一列に並べ銃に剣を着け、号令にて一斉の動作、之を突き殺せり《とある。

 「人骸累重、実に山を為せり《と2月4日に記されていた。「責問の上、重罪人を殺し、この所に屍を棄てし者、六百八十吊に達せり《と説明していた。

 日誌を残した兵が所属した大隊は六百数十人の規模だったが、転戦の間の戦死者は1人だった。東学の農民が持っていたのはやりや火縄銃で、装備の差があまりに大きかったと井上さんば指摘する。

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 明治維新の研究者だった井上さんは25年ほど前、北海道大学が保管する人骨の返遺を担当した。その中に「珍島地方で東学の農民数百人が処刑され、(首魁)たちはさらし首になった。この骨はその一つ《との書き付けを見つけた。

 どのような人なのか。どこへ返せばいいのか。手がかりを探したが、日本、韓国の双方に記録はぼとんどなかった。「隠された歴史がある《との思いから井上さんは研究を続け、出合ったのが兵士の日誌だった。

 記されていたのはためらいない虐殺だった。「処置は厳烈なるを要する。悉く殺戮すべし《と部隊は参謀本部から命令されていた。

 関東大震災は農民戦争から28年後のことだ。被災地で虐殺の中心となったのは自警団という組織だが、これは1918年の米騒動をきっかけに行政が結成を進めた組織で、母体となったのは在郷軍人会だった。退役軍人の集まりである在郷軍人会の指導層は、年齢からすると日清戦争の経験者だったはずだ。「東学討伐と関東大震災はつながるのではありませんか《と井上さん。

 「上逞《とは何か。そのイメージの源流をたどるうちに新しい研究にたどり着いた。井上さんの説明によると、西洋の西学に対するものとして東学は生まれ、目指したのは貧しい者の平等と相互扶助だったという。時期といい、担い手、思想とも、維新の激動の中、川崎で生まれた丸山教と重なって見えてくる。明治になって150年の節目の年、日本のたどった近代を振り返ると、目を向けるべき知らない歴史がここにもあることを痛感する。
      (渡辺延志)



 *震災直後の状況を報じる画集の中の1枚。夜警の様子が描かれているが、自警団員は武器を携えている。通行人に難しい言葉を言わせ、発音が悪いと朝鮮人とされた。その言葉の代表は「15円50銭《だったと伝わる=妻徳相氏所蔵・在日韓人歴史資料館(東京・南麻布)提供
*「東徒追討応援隊《などと東学農民の討伐を伝える1894年12月の東京朝日新聞。「数千人を斃す《「巨魁を殺した《などと報じている。井上さんによると、その後まとめられた陸軍の戦史には記載がない