(平成とは あの時:10)

    “礎”失い、迷走続く日中

    元中国総局長・藤原秀人


      2018年7月26日05時00分 朝日新聞

 


繰り返す友好と摩擦/中国への親近感/日中のGDPの推移


 改革開放政策により中国を今日の繁栄に導いたトウ小平は、抗日戦争を戦いながらも、日中国交正常化後には昭和天皇と歴史的な会見をし、天皇訪中の道を開くなど隣国日本との関係の礎も築いた。その死を軸に、平成の日中関係を振り返る。

 ■カリスマの足跡 曲折を経ながら貫いた「友好《

 1997(平成9)年2月19日夜。朝日新聞北京支局長の加藤千洋(現・平安女学院大学客員教授)は、世界的なスクープをものにしようとしていた。

 当時、中国に駐在する外国メディアの記者たちの最大の関心事は、トウ小平の病状だった。共産党の要職を退いて久しいとはいえ、様々な危機を乗り越えて改革開放を率いてきたカリスマ指導者の死が、中国を大混乱に陥れるという見方は否定できなかった。

 容体は深刻であることが漏れ伝わっていた。加藤は連日、故宮の北側にあったトウの自宅や、元首相の周恩来ががん手術を受けたことで知られる三〇五病院、そして北京市西郊の人民解放軍総病院、通称三〇一病院などに足を運んで様子をうかがった。

 その日午後9時半(日本時間午後10時半)すぎ、加藤は三〇一病院の周辺で異変を目撃した。

 北京市中心を貫く長安街につながる復興路に、多数の警官が配置され始めたのだ。やがて党・政府の要人たちが住む中南海の方から、三〇一病院に向けて高級車の車列が続いた。それらの車は病院に10分、15分ととどまると、また道を引き返していった。

 「これは弔問だ《

 加藤は直感した。

 トウが死去したのは19日の午後9時8分だったが、国営新華社通信が公式に発表したのは、翌20日午前2時42分。日本の在京新聞の締め切りはとうに過ぎていたが、加藤や支局員の取材が実を結び、20日の朝日新聞最終版には「トウ小平氏死去か《の見出しが躍った。

 トウは日中関係においても大きな足跡を残した。

 78年10月、日中平和友好条約の批准書交換のため副首相として来日し、昭和天皇と会見。友好ムードを盛り上げた。

 一方、東京の日本記者クラブでの会見では、日中双方が領有権を主張していた尖閣諸島問題の「棚上げ《を表明。「この問題は一時棚上げしても構わないと思う。10年棚上げしても構わない。次の世代の人には我々よりもっと知恵があろう《と述べもした。

 89年、民主化を求める学生らが天安門広場を埋めると、トウは共産党の独裁を守るために武力で弾圧する非情さを隠さなかったが、日本との関係は大切にした。

 国交正常化以降、曲折を経ながらも発展を続けてきた日中関係が一つの頂をむかえたのが、92年の史上初の天皇訪中だった。

 歴史問題をめぐり中国の人々が複雑な感情を抱えるなか、天皇を迎え入れるのは、中国にとっても容易なことではなかった。その時の中国指導部の判断に、トウの意向が反映されていたことは疑いない。トウは病気のため会うことはかなわなかったが、北京と西安、上海を訪れた天皇の姿は、中国の人々に強い印象を残した。

 「柔和な表情で手を振る天皇に、中国人は真心からの友好を感じた《。上海市副市長として天皇を接遇した趙啓正は振り返る。

 ■後継者の時代 歴史認識・領土…対立が深刻化

 トウが一線を退いた後、最高指導者に就いたのは江沢民である。トウに抜擢(ばってき)された江は、おおむねトウが敷いた路線を踏襲した。爪を隠して才能を覆い、しかるべき時期を待つ「韜光養晦(とうこうようかい)《という言葉に象徴されるトウの外交路線も引き継がれた。

 トウが死去した97年の秋、江は中国の国家主席として天安門事件後初めて訪米。大統領のクリントンと会談し、天安門事件で傷ついた対米関係を修復した。江はニューヨーク証券取引所で取引開始の鐘をならし、ハーバード大学での講演で中国の民主化にも言及した。トウが開いた改革開放の道を、中国は引き続き歩んでいくというメッセージだった。

 しかし、日本に対しては、中国はトウの時代とは異なる姿勢も見せるようになる。国内で愛国主義教育に力を入れた江は98年、国家元首として初めて日本を公式訪問した際、執拗(しつよう)ともとれる歴史認識発言で日本の反発を買った。両国を隔てる壁として、歴史問題が改めてクローズアップされるようになった。

 江を継いで2002年に党総書記になったのは胡錦濤だ。胡は共産党のエリート育成組織、共産主義青年団トップだった1984年に日本から3千人の訪中団を受け入れ、訪日時にはその時のメンバーにも再会した。大学時代から胡を知る友人は「胡より前の世代は外国といえば旧ソ連。胡より若い世代は米国。はざまの胡にとって最も近い外国は日本だ《という。

 胡は訪日時に署吊した共同声明で「歴史を直視する《との表現にとどめ、日本の謝罪にこだわった江との違いを示し、歴史問題を日中関係の前面に据えない姿勢を示した。しかし胡の時代、日本の首相、小泉純一郎の靖国参拝などで歴史問題は一層先鋭化し、中国各地で反日デモが起きた。

 そして胡指導部最終盤の12年に尖閣諸島をめぐる対立が先鋭化し、日中は歴史問題に加え、領土という大きな火種を抱えた。

 国有化の直後、胡から党総書記を引き継いだのが習近平だった。

 ■習の強硬外交 国力様変わり、描けぬビジョン

 習が浙江省党委員会書記だった時、中国総局長だった私は省都杭州でふたりきりで1時間以上話したことがある。杭州で開かれたシンポジウムの主催者の紹介だった。習はいすからすくっと立ち上がり、両手で私の手を握った。分厚く、硬い手だった。

 新聞記者の仕事について「大変でしょう《とねぎらい、杭州料理のおいしさなどあれこれ話した。物腰が柔らかく、気さくな指導者だと感じた。

 私に限らず、習は日本からの来客を丁重に迎えた。国家副主席になってからも、地方指導者時代に交流のあった長崎県と静岡県の知事と面会した。副主席としては異例の厚遇だ。

 しかし、最高指導者となった習が繰り出す外交はトウやその後継者たちとは異なる、強硬なものだった。

 習は「中華民族の偉大な復興《とのスローガンを掲げ、大国の位置を固めようとしている。最優先する米国との関係を慎重にコントロールしつつも、南シナ海、東シナ海、そして太平洋への勢力拡大をはかる。

 97年、トウの死去を北京の日本大使館専門調査員として迎えた東大教授の高原明生は「習氏は大きくなった国力を駆使したいのだろう《という。一方、対中外交に深く関わった元外交官は「習氏は国を任されてから、党独裁を維持するのに神経質になっている《と、余裕のなさを見て取る。

 米中が通商問題で鋭く対立するなか、習指導部は尖閣諸島をめぐる対立で冷え切っていた日本との関係改善を試みている。日本側も中国が進めるシルクロード経済圏構想(一帯一路)への協力を表明するなど、雪解けムードが強まる。

 平成の30年で、日中の国力や世界における影響力は様変わりした。外相兼国務委員として中国外交を担う元駐日大使の王毅は「日本側がこの現実を率直に受けとめないと、中日関係を発展させるのは難しい《という。

 しかし、戦争の記憶に基づく中国人の被害意識と、いち早く経済成長を遂げた日本人の優越感は大きくは変わらない。平成に続く時代、両国関係のビジョンを描くのは容易ではない。=敬称略

 ■大国化する中国、どう評価するか 劉傑・早稲田大学教授

 平成の日中関係は迷走の30年だ。双方は1972年に国交正常化したが、その時に重ねた努力を顧みることがなくなった。

 「日中友好《という声もほとんど聞かれなくなった。92年の天皇訪中までは、「日中友好《が関係の基本だった。

 90年代のなかば以降、そうした関係は変質した。台湾海峡危機や核実験で日本人は中国の強国化を実感し、一方の中国人は、首相の靖国参拝などから日本人の歴史認識には問題があるとの思いを強めた。

 日中の近現代史は、近代化に成功した日本が中国を下に見るというものだったが、改革開放後、中国が発展を続けたことで関係がフラットになった。

 そこで「友好《よりも「戦略《が強調されるようになった。現在の日中関係の目標は、「戦略的互恵関係《の構築を目指すというものだ。戦略とは長期的なものであり、国益を重視することを示す。

 日中はどういう関係をつくるのか。ポイントは、中国の大国化をマイナスととらえるか、積極的に評価するかだ。中国も、自国だけでは発展できないという意識を持つことが大切だ。近隣諸国と謙虚につきあう必要がある。

 ■私と平成 元中国総局長・藤原秀人(63)

 学生時代から中国を学び、特派員として中国を見続けてきた。トウ小平と真剣に向き合ったのは平成になってからだ。娘の毛毛が書いた伝記の一部を翻訳した。娘が書いたものだから美談が多かったが、トランプのブリッジとサッカーを愛したトウに関心を持った。

 トウは経済を改革したが、政治は改革しなかった。しかし、民主化を進めない限り、世界とぎくしゃくした関係は今後も続くだろう。

 中国は大国化の道を大股で、音を立てながら歩む。

 中国が異形の発展を続けるなかで、日中関係にどういう指針をつくれるのか。双方で心底考えなければ、と思う。