日本人と中国人 

   陳舜臣


   
     1984.08.25 集英社文庫

『日本人と中国人』は、昭和四十六年八月に祥伝社から、ノン・ブックの一冊として書下 し刊行された陳舜臣のエッセイである。一月を経ないで、版をつぎつぎと重ね、ベストセ ラーとなったが、このことは、この本が久しく待望された書物であったことを裏づける。  当時は、ニクソンの訪中が決定し、日本でも社会党主導の日中国交回復国民会議が発足、 北京で日中復文四原則の共同声明がなざれるなど、対中国策が大きく変ろうとする時期だ った。翌昭和四十七年秋には、田中訪中が実現し、日中国交正常化の共同声明となるので ある。

甲子園にひるがえる「必勝A高」の旗を見ると中国人は「必ずA高に勝つぞ」と読む。洗顔の時、日本人はタオルを動かすが、中国人は顔の方を動かす……やさしいエピソードを交え、歴史をふり返り、異質な文化伝統を認めあうことから日中の比較論を展開する。そして日本人の誤った中国認識、中国人観を鋭く快り、真の友好を説く。これは最良の中国入門書であり同時に優れた日本論である。


 目次
まえがき
第一章 日本人と中国人に関する一問一答
第二章 唇と歯---つきあいの歴史
第三章 ”面子”と”もののあわれ”
第四章 ことだま
第五章 ”血”と”文明”
第六章 ”完全”と”上完全”
第七章 "人間くささ″と”ほどのよさ″
第ハ章 われら隣人


第四章 ことだま
道しるべ
日本にとって中国は”打出の小槌”
・・・・・・
”遁世”さえパターン化した日本
・・・・・・

"道しるべ"を立てた民族と、それに従った民族

 科学や技術のジャンルでは、すでに誰かが実験していたり、証明してくれていると、大そう便利である。だが、人間の生き方、そして芸術のジャンルなどでは、既成のパターンの多いことは、むしろマイナスなのだ。なぜなら、そうしたものは、なによりもオリジナリティが尊重されるからである。
 図書寮で外国の先例を調べるということをくり返しているうちに、それが日本人の一つの姿勢になってしまったようだ。
 明治維新のときにも、西欧文明にかんする書物を仕入れ、各国へ留学生を送り込んでおけば、なんとかやっていけた。
 太平洋戦争敗戦のあとにも、デモクラシーだとか東洋のスイスだとか、拠るべきものに上足はしなかった。
 さて、どちらへ行こうか?
 足をとめて、ちょっと考える。  そのていどですんだ。なぜなら、すぐそば、あるいは何歩か行ったところに、たいてい『道しるべ』が立っていたからである。
 中国人は歩きながら、道しるべを立ててきた民族で、日本人は道しるべを頼りに歩いてきた民族てあるといえる。
 おまけに、中国の場合、雑多な人間が、ぞろぞろといっしょに歩いていた。これまでたがいに顔をあわせたこともない者さえいるという、マンモス・パーティなのだ。
 日本隊は人数がうんとすくない。そして、みんな親威なみにつき合って、気心がよく知れている。
 このような、二つの登山隊の性格を設定し、前述の『道しるべ』を立てるのと、そうでないという条件を加えてみれば、それぞれどんな登山になるか、想像がつくであろう。
 中国隊は道しるべのないところを登るので、さんざん道に迷い、ときには振り出しに戻るといった、能率のわるい歩き方をしなければならない。


"以心伝心"とは過程のない理念

 そのうえ、隊員たちはときには上満をもらし、もらすどころか、大声でがなり立てることもある。右へ行こうといえば左へ行きたがる者もいる。右すべきか左すべきかという分岐点では、とうぜんわいわいと論議がおこなわれる。このような論議、説得工作がすんでから、やっとうごきだす。
 右へ行くことがきまって、そのとおりにすると、ときには断崖につきあたって、引き返さねばならぬこともある。そんなとき、リーダーおよびその同調者は、一部の隊員の怒りを買い、わるくすれば、リンチを受けかねない。
 考えただけでうんざりする登山隊ではないか。
 それにくらべて、少数精鋭の日本隊は、すでに先人の踏みかためた道があり、それを辿って行けば迷うはずはない。どんどんと進むだけてよいのだ。
 日本隊は途中で、右か左かで大論争をおこす必要もない。ていねいな道しるべが、あちこちに立っているからだ。
 ことあげしないのである。いや、しなくてすむのだ。
 すっきりしている。
 性格もあっさりしてくるはずだ。
 そのかわり、ねばりに欠ける。ねばらねばならない場面に、あまり出会っていないからだ。道が二つに分かれているところで、中国隊は人間同士の言い争いがおこる。日本隊はそこでは道しるべを見るだけですんだ。
 精神の歴史においても、重大なポイントになると、日本人はかならず『道しるべ』と対話してきた。
 その道しるべは、『結果』である。過程を抜きにして、とにかく要するに、ここからは左へ行かねばならぬのだ、と教える。
 以心伝心とは、つまり過程を抜くことにはかならない。
 そして、説得というのは、過程においてこそ必要なものなのだ。結果が出てしまえば、過程はとたんに影が薄くなる。