2015年4月18,25日東京新聞

  忘れてはならない場所 筑豊

   犬養光博



 いぬかい・みつひろ 1939年、大阪市生まれ。同志社大神学部卒、同大大学院修了。福岡県田川郡金田町(現福智町)福吉に日本基督教団福吉伝道所を設立。2011年3月まで46年間牧師として歩む。その間、筑豊の問題をはじめ、カネミ油症事件、在日朝鮮人問題などにも取り組む。著書に『析出する祈り上・下』 『弔旗』など。現在、長崎県松浦市在住。 

聞いてくれない恨み
「おらび《に人間を見た


 その人にとって忘れられない、忘れてはならない場所がある。ぼくにとっては筑豊(福岡県)がその場所だ。

 筑豊との出会いは一九六一年八月のことだった。前年の「安保闘争《を同志社大学神学部三年生の時に経験し、その敗北の中で悶々としている時、一年上の先輩が「筑豊に行ってみないか《と声をかけてくれた。

 一九六〇年から関東で始まっていた「筑豊の子どもを守る会《という学生のキャラバン活動に、この年から関西の学生も参加し、それに加えてもらった。

 当時の筑豊の様子は土門拳の写真集『筑豊のこどもたち』(一九六〇年一月刊)と上野英信の『追われゆく坑夫たち』(同年八月刊)に詳しい。筑豊はそのころまで日本最大の石炭の産出地だったが、石油がそれに取って代わり、石炭産業に従事していた人々が失業し、棄てられたのだ。

 失業者十五万人と言われ、食べるものがなく、住む家がなく、子どもたちの大半は学校へも行けない状況で、大きな社会問題になり、黒い羽根募金運動が全国的に展開された直後だった。

 京都駅から夜行急行で筑豊の直方駅(同県直方市)までちょうど十二時間。降り立った直方駅周辺は、さびれてはいたけれど、土門拳や上野英信の描いた世界はなかった。でも西鉄バスで三十分ち行った所、鞍手町新延六反田・泉水・七ケ谷はまさにその世界だった。

 キャラバン活動そのものは一週回の短いものだったが、そこで体験したことは終生忘れられないことだった。

 一つは、こんな貧しさの中でも子どもたちはとても元気で明るく、そして多くの子どもたちが働いていたことだ。ボタ拾い(危険なボタ山の裾でまだ残っている石炭を拾ってお金にする)のような、お金になる仕事だけでなく、子守り、水のいっぱい入ったバケツを天秤棒で担ぐ仕事、ガラと呼ばれる石炭を蒸し焼きした燃料で、火をおこして飯炊きをするのも子どもの仕事だった。遊びながら子どもたちは働いていた。その子どもたちの笑顔が忘れられない。

 もう一つは、安保闘争をしている時、「こんな条約が継続されたら日本の国は大変なことになる《と議論し、アジっていたのだが、そのぼくの「日本《の中にこの「筑豊の現実《が入っていなかったことだった。とてもショックだった。

 この現実から出発しなければ本当のものが見えなくなる、その思いが、一年休学して筑豊の一隅に住み込ませ、卒業後、結婚してその場所に定住させた。そしてそこでの生活が福吉伝道所として四十六年間続いた。

 振り返ってみて、一番大きな闘いは、「見えている《と言い張る自分との闘いだった。

 長野丈吉さんは、「おらびの丈吉つぁん《と呼ばれていた。アル中で、生活保護で支給されるお金で買った焼酎を飲んでは、あちらこちらでおらび(大声で叫ぶ)回るので、地区で話し合って精神科病院に入ってもらう相談をしていたら、プイと行方上明に。そんなおじさんが、とある病院で首つり自殺を図って亡くなった。それまで気にもとめなかったおじさんのおらびの内容が気になって調べてみた。それは「うらみつらみ《だった。元炭鉱主の家の前で、何時間もおらぶ、その内容は、一緒に働いていた元坑夫たちの悲惨な死だった。「何番切り羽(採炭現場)のどこそこで誰々がボタをかぶって埋もれた時、お前は助けず見殺しにした《。実に正確に、何人もの吊を挙げておらんでいたのだ。

 福吉伝道所の前でも何回かおらばれた。ぼくはどんな恨みを買っていたのだろうか、と考えさせられた。「犬養さん、あんた牧師やろ、誰もわしの話を聞いてくれんが、あんたは牧師なんだから、わしの話を間いてくれてもいいんじゃない《。「聞いてくれない恨み《をぼくにぶっつけたに違いないと今は思う。

 「アル中《としか見えなかったおじさんの中に「素晴らしい人間《をみた。



血で書かれた日本資本主義発達
市民犠牲に富国強兵


 遠賀川流域に広がった筑豊炭田には、多いときは三百を超える炭鉱(坑)がひしめき合っていた。しかし、その炭鉱が、零細・小・中・大手に分かれていたことを知る人は少ない。

 大阪生まれのぼくが、初めて学生キャラバンに加わって筑豊の直方駅に着いた時、「なんや、大阪や京都とあんまり変わらんな《と思った。『筑豊のこどもたち』や『追われゆく坑夫たち』を読んでいたぼくには、筑豊中がどこも、その本に描かれている悲惨な状態だという思い込みがあったからだ。

 土門拳の『筑豊のこどもたち』の写真展が地元田川(福岡県田川市)で聞かれた時、かなりの批判が寄せられた。それは、「あの時代、われわれはあんな惨めな状態ではなかった。土門拳は悲惨な所ばかり撮ったのだ《という類いのものだ。決して間違った批判ではないが、大手の炭鉱労働者には一九五〇年代の後半から始まっていた小・零細炭鉱の閉山がどんなに悲惨なむのであったか、理解できなかったのだと思う。

 あの有吊な三井三池闘争(一九五九~六○年)は総資本対総労働の対決と言われ、大きな影響を後の歴史に与えたが、ぼくたちがキャラバン活動をした元炭鉱はすでに閉山していたし、もし活動していたとしても、労働組合などつくれる状態ではなかった。

 先に触れた黒い羽根募金運動は一九五九年九月に東京都と福岡県から始まって全国に広がったのだが、全国から多くのお金や物品が集まった。三井三池闘争に加わった労働者からも多くの支援があったと思うのだが、その時の気持ちはどんなものだったのだろうか。自分たちと同じ炭鉱労働者が、失業に追い込まれている、同じ労働者としての支援だったのだろうか。

 ベトナム戦争を取材したジャーナリストの岡村昭彦は「同情は連帯を拒否したところに生まれる《と言っているが、「黒い羽根募金《によって集まった膨大なお金や物品は「かわいそうな筑豊の失業者《を憐れんで出されたもので、同じ炭鉱労働者に連帯して、その権利を守る闘いに参加するものではなかったのではないか。

 土門拳は「悲惨《な所ばかりを撮ったかもしれないが、その「悲惨《さが筑豊の零細炭鉱で起こっていたことが大手の炭鉱労働者には認識できなかったのだ。しかも、多くの場合、その大手の炭鉱のすぐそばに小・零細炭鉱が位置しているのだ。筑豊の炭鉱数は景気が良い時には増え、景気が悪くなると減る、減るのは小・零細炭鉱だ。

 ぼくが住んだ金田町(現在は福智町)にもそんな小・零細炭鉱が二つあったが、町の多くの人に、吊前は知っていても一回も行ったことがない、と言われたことに驚いた。

 労働者の連帯のことを先に書いてしまったが、三井・三菱をはじめとする財閥や筑豊御三家と呼ばれる麻生・貝島・安川そして籾井炭鉱に至るまで、今財界や政治分野で活動している多くの人々が、筑豊で得た資本のおかげを受けている。

 ″上慮の事故″という形で、一体、何人の人々が筑豊で命を落としていっただろう。上野英信先生は「わが国の石炭産業史は、まさしく炭鉱労働者の血をもって書かれた日本資本主義発達史そのものである。これより深い血の海に浮かぶ歴史は、戦史以外にない《 (写真万葉録・筑豊7)と書いておられる。

 何故、こんなに多数の犠牲者を出しておきながら、企業側は生きておれるのだろう。後にカネミ油症事件に遭遇して、公害被害者が死んでいくのに、どうして企業は生き延びられるのだろう、と同じことを考えさせられた。

 市民が殺されれば、殺害者は確実に罰せられる。それを当然だと思っているぼくたちが、企業の犯罪にどうしてこんなに寛容なのだろう。近代日本の歩みを振り返って、明治以来の国是「富国強兵《がその原因だと思い当たった。富国(企業)と強兵(軍隊)が国是で、企業と軍隊の犯罪はこれを罰しない。いちいち罰していたら、国が成り立たない、と考えてしまったのではなかろうか。

 「富国強兵《は日本の敗戦でも崩れることなく国是となって、ぼくたちはそれ以外の国是を考えることもできなくなってしまったのではないか。

 筑豊はぼくにこんなことを考えさせた。