チェルノブイリの祈り 未来の物語
  訳者あとがき

   松本妙子


    一九九八年十一月

  岩波書店 1998年12月18日 第1刷発行


・・・・・
・・・・・
日本ではほとんど知られていないこの作家の作品とその歩みを簡単に紹介したいと思う。

 スベトラーナ・アレクシエービッチは一九四八年五月三一日、ウクライナのイワノ・フランコフスク生まれ。父はベラルーシ人、母はウクライナ人。軍隊に勤務していた父の除隊後、家は父の故郷のベラルーシの片田舎に移り、両親は村の教師となる。六七年ミンスクの国立ペラルーシ大学ジャーナリズム学部に入学。卒業後は地区新聞の特派員をしながら学校でも敢えていた。その後、ミンスクの新聞社や、ベラルーシ作家同盟機関誌『ネマン』の特派員をへて同誌のルポルタ*ジュ・社会評論部部長となる。

 彼女の進むべき道を決定したのは、ベラルーシの有吊な作家、アレーシ・アダモービッチ(一九二七*九四)との出会いだった。ベラルーシ文学や、現代ロシア文学にはなかったドキュメンタリーというジャンルをてがけたアレーシ・アダモービッチを、アレクシュービッチは自分の師と呼んでいる。「真実をとらえること、これこそ私がやりたかったことなんです《と、のちにインタビューのなかで語っている。「この新しいジャンル、つまり人々の声、証言、告白、心の記録というジャンルを、私はすぐに自分のものにしました。私の内にあったものすべてが生かせることがわかったのです。作家であると同時に、ジャーナリスト、社会学者、精神分析家、伝道者であらねばなりませんでしたから《

 一九八三年に『戦争は女の顔をしていない』が書かれたが、平和主義だの、ソビエト女件の英雄的イメージを崩すものだのと非難をあび、本は一年間出版社に眠ったままで刊行されなかった。第一作目の、生まれ故郷をすてた人々のモノローグ集『私は村をはなれた』を書いたとき、アレクシエービッチには反ソ的、反体制的ジャーナリストというレッテルが貼られ、当時のベラルーシ中央委員会政治宣伝部の指示で、印刷所でできあがっていた組版が解かれるというできごとがあった。しかし、時代は移り変わりゴルバチョフが登場、ペレストロイカが始まった。八五年、『戦争は女の顔をしていない』はモスクワとミンスクでほぼ同時に出版され、現在までに二〇〇万部を重ねている。タガンカ劇場は戦勝四〇周年を祝って『戟争は女の顔をしていない』を上演、またオムスク国立劇場はこの芝居を上演し、国家賞を受けている。この芝居はソ連全土で何十もの劇場で上演された。この作品の映画化にはアレクシエービッチも加わり、ソ連邦国家賞、ライプチヒ・国際ドキュメンタリー映画祭の 「銀の鳩《賞を受賞。

 同じく八五年、時がくるのをこれまた一年間も待っていた『最後の生き証人たち』が出た。ここには子どもたちの目で見た戦争が語られている。 八九年、ソ連国民に一〇年間もかくされていたアフガン戦争の帰還兵や戦死者の母親の証言がつづられた『亜鉛の少年たち』が出ると、ソビエト社会は騒然とし、軍や共産党の新聞はこぞってアレクシエーピッチを攻撃しはじめた。また戦争の英雄神話に泥を塗ったとして、彼女を許しがたく思う人々も大勢いた。九二年、アレクシエービッチと著書『亜鉛の少年たち』に対して政治裁判が起こされたが、民主団体や海外の著吊な知識人が彼女の弁護に立ちLがり、裁判は一時中止となった。この作品も映画化、舞台化されている。

 九三年、『死に魅せられた人々』が書かれた。社会主義思想、社会主義大陸が消失したことが耐えられず自ら命を絶った人、絶とうとした人々の記録である。新しい国、新しい世界、新しい歴史を受けいれる力を自分のなかに見出せなかった人々の告白である。この本は、アレクシエービッチ自身がシナリオを書き、モスクワで映画化された。

 九七年、本書『チェルノブイリの祈り』が発表された。この本は、現在までにモスクワ、スウェーデン、ドイツ、フランスで刊行され、ロシアの 「大勝利《賞、ライプチヒの「一九九八年ヨーロッパ相互理解《賞、第二回ドイツ「最優秀政治書籍《賞を受賞。当初ベラルーシでも出される予定だったが、出版計画は突如取り消され、いまのところ本が出る予定はなさそうだ。〝独裁者″ルカシュンコ大統領は、「ベラルーシにはチェルノブイリの問題は存在しない、放射能にさらされた土地は正常で、ジャガイモを椊えることができる《と宣言したという。ソ連邦崩壊後、独立国となり、軍事社会主義、独裁政治が復活しつつある今日のベラルーシにおいては、毅然として真実を追及するアレクシエービッチとその本は、権力者に「愛されている《とはいいがたい。

 「文学における勇気と威厳《をたたえて九六年、スウェーデン・ペンクラブ賞がアレクシエービッチに贈られた。

 最近のロシアの新聞によれば、アレクシエービッチは次の作品を執筆中とのこと。著者のこのジャンルにはこれからさらに磨きがかけられ、ジャンルの新たな可能性が求めつづけられるものと信じている。

 なお、『チェルノブイリの祈り』 の語り手の年齢については、語り手自身がモノローグのなかでのべている箇所もあるが、そのほかは特に記されていない。

 未熟者ゆえ翻訳の過程でたくさんの方のお力を借りました。お吊前は挙げませんが、心からお礼を申し上げます。ありがとうございました。

   一九九八年十一月
                                   松本妙子