“首相案件”を忖度する時代の「21世紀型官僚《とは何か?

     辻田 真佐憲


      2018年4月13日(金)11時0分 文春オンライン





 佐竹五六の『体験的官僚論』(有斐閣)は、官僚論の吊著のひとつだ。1998年の刊行だが、森友学園や加計学園をめぐる問題で官僚の言動に注目が集まっている今日、改めて読み返すに値するものである。

古書店を回って集めた「官僚文献《の数々

 著者は1955年東大法学部を卒業し、農林省に入省、1987年水産庁長官を最後に退官した。

 典型的なエリート官僚だが、「自分の果たしている役割を、努めて客観的に眺める《ために、実務の傍ら40年余の間、古書店をまわって官僚に関する文献を集め、読み込んだという。

佐竹五六『体験的官僚論』

 そのため、その記述はたいへん客観的で、元官僚の著作にありがちな、個人的な思い出話に終始しない。多種多様な官僚の回想録がつぎつぎに引用されており、それだけでもたいへんな読み応えがある。


天下国家を語る「国士型官僚《

 佐竹は本書で、戦後日本の事務系キャリア官僚を「国士型官僚《と「リアリスト官僚《に分ける。

 太平洋戦争の敗戦後の官僚は、「日本はこうあるべき《との理想論を語る、国士型官僚が主流を占めた。

 当時の官僚は、占領軍の権力を背景に、みずからの思い描く理想をほとんど外部の制約なく施策として実現できた。日本の独立後も、政党が未成熟だったので、しばらくその状態が続いた。

 そのため、官僚は自分たちこそが天下国家を担っているという強烈な自負心と使命感をもち、努力を惜しまなかったのである。


庁舎内で「冷や酒の一升瓶《を

 それを後押しする環境も整っていた。当時の官僚は、国会対策などで多くの時間を取られなかったので、時間的にも精神的にもゆとりがあり、政策について十分な議論ができたという。


 新人の官僚は、外国語の原書を手渡され、大学のゼミナール方式で幹部に鍛えられた。「勤務時間中でも、自分で自由に丸善や紀伊國屋などで原書を買って研究することができた《(福田幸弘『戦中派の懐想』)。

 また、官僚たちは庁舎内で「石炭対策とか、国民車構想とかを論じながら、するめの足をかじって、夜中の一二時過ぎまで、冷や酒の一升瓶を傾け《た(並木信義『通産官僚の破綻』)。


55年体制と忖度のはじまり

 だが、このようなゆとりある国士型官僚の時代は、55年体制の成立とともに変化をよぎなくされた。自民党の万年与党化によって族議員が権力をもつようになり、もはや官僚は自由自在に理想を実現できなくなったのである。

 もはや天下国家を語っても仕方がない。膨大な予算を限られた時間内に混乱なくまとめ上げるため、官僚は、族議員や関係団体の意向を伺い、根回しをし、かれらが紊得する試案をまとめることに奔走するようになった。リアリスト官僚の誕生である。

 リアリスト官僚の思考を示すものとして、大蔵官僚のこんな証言が引かれている。

「『おたがいに、あまり基本的な疑問をもたないことにしましょうや。基本問題に疑問をもちだすと、キリがありませんから……。』と遠慮がちではありましたが、かなりハッキリと、そういいました。これには思わずギクリとしましたね。なるほど、これが発言者をふくめた当時の公務員の平均的思考形態なのかな、と《(橋口収『若き官僚たちへの手紙』)。


リアリスト官僚にとっては必要な能力

 こういうリアリスト官僚にとっては、施策の整合性や合理性よりも、有力者がどう考えているかが重要になってくる。

「たとえ、暫定的なものであっても、限られた時間内において関係者間の合意を成立させ、当面、問題の一応の解決を図ることを職務としている実務家にとっては、事柄の客観的側面に関する膨大な間接情報よりも、組織の中枢にあるキーパースンが問題をどう受け止めているかを示唆する一言のほうが比較にならないほど価値が大きい《(佐竹、前掲書)。

 有力者は明確に「こうせよ《と指示するとは限らない。そこには示唆も含まれる。佐竹はこの言葉を使っていないが、まさに適切な「忖度《もリアリスト官僚にとっては必要な能力のひとつだったのではないかと考えられる。


21世紀型の官僚は現れるか

 こうしたリアリスト官僚の仕事ぶりは、高度経済成長の時代には「パイの切り分け《としてうまく機能した。だが、第一次石油ショック以降になると、その場しのぎの弥縫策で深刻な問題を先送りする原因となった。

 また、官僚が政治家や業界団体と密接に結びつくことで、腐敗の温床にもなった。夜な夜な料亭で情報収集に明け暮れたり、業界団体から高額な講演料などを受け取ったりすることで、公私の区別が次第に希薄になっていったのである。

 そこで佐竹は、21世紀に期待される新しい官僚像を提示する。それは、高度な知的作業能力にもとづき、政治家に選択肢を提示するスタッフとしての姿である。官僚は余計な配慮などせず、最終的な決定は政治家に委ねるというわけだ。

 もっとも、これには政策を実現する側の政治家の力量や責任感が欠かせない。

「筆者は、力をもつ政治家として、現実追随になりがちである官僚の目標設定を現実と緊張感をもつ目標のレベルに高めることを期待したい。あるいは、官僚が選択しがちである自分の身の丈に合わせて問題を矮小化する現実追随型の選択肢ではなく、政治家として自ら傷つきかねないリスクを負い、汗を流す決意を要する選択肢を選ばれることを期待したいのである《(佐竹、前掲書)。


政治家と国民の変化が欠かせない

 さて、2018年の現在から振り返ると、いまだリアリスト官僚が主流であるように思われる。

 政治家と官僚の役割分担が明確であったならば、責任の所在も明らかなので、「忖度《の話も出ず、森友学園や加計学園をめぐる問題もここまで拗れなかったにちがいない。

 では、スタッフ型の官僚への移行はいつ実現するのだろうか。

 国士型官僚からリアリスト官僚への移行は、55年体制の成立によって実現した。したがってつぎの移行も、政治の動きいかんによって決まるだろう。そしてそれを決めるのはほかならぬ国民なのである。

 21世紀型の官僚の実現には、政治家の変化が欠かせないし、政治家を選ぶ国民の変化も欠かせない。リアリスト官僚の言動を叩くだけではなにも変わらない??。

 官僚論の吊著『体験的官僚論』は、20年も前にこのことを歴史的な経緯からすでに指摘しているのである。



(辻田 真佐憲)