(戦後の原点)時代刻む法廷 

   ケンブリッジ大学准教授、バラック・クシュナーさん


      2016年6月28日05時00分 朝日新聞

 


Barak Kushner ケンブリッジ大学准教授(近現代日本史) 68年米国生まれ。大学卒業後、岩手で英語を教えながら日本語を学ぶ。著書にラーメンの歴史を書いた「Slurp!《など。
「歴史にはさまざまな見方がある方が健全なのです《=英ケンブリッジ大学、大野博人撮影

 戦争犯罪を裁く法廷は、時代の節目を刻む役割を担う。何を終わらせ、何を始めるか。第2次大戦後、とりわけ中国でのBC級戦犯裁判は、裁く側にも重い意味を持った。その研究の成果を昨年、「Men to Devils, Devils to Men(人間から鬼へ 鬼から人間へ)《(邦訳未刊)として出版した著者に聞いた。

 ――BC級戦犯裁判は戦後の歴史で、どのような意味を持っていたのでしょうか。

 「敗戦と米国による占領という視点から見ると、日本は1945年の8月15日を境に、戦後へぽんと飛びます。そして、敗戦から立ち上がって、米国に支えられながら復興を果たす、というストーリーができていきます《

 「しかし同時に、日本の敗戦とは大日本帝国の崩壊でした。帝国の大きな部分が、連合国側によって切断されたのです。では、切断された朝鮮半島、台湾、中国、東南アジアなど、日本以外のところはあの日からどうなったのか《

 「日本はその後、わりと早く安定して穏やかな状況になりました。しかし、切断された側はまったく違っていた。帝国時代に残された問題は、日本ではなく、まだ混乱が続く地域の中で処理していかなければなりませんでした《

 ――その大きな仕事の一つが戦争の処理にかかわる裁判だったということですね。

 「そうです。中国でBC級戦犯として裁かれた日本人は約千人。それに、日本に協力した中国人も『漢奸(かんかん)裁判』として裁かれた。3万から4万人だったといわれ、こちらの方が圧倒的に多い《

 「当時の中国では、日本人より売国者を裁くことの方がもっと重要でした。この人たちは、中国人の問題として裁かれたのです《

 「これはあまり注目されてきませんでした。しかし、BC級戦犯と合わせ、日本の歴史の一部ではないでしょうか《

 ――帝国から切断された側では、自分たちの仲間を裁く過酷なこともしていたと。

 「それは日本人も知っておくべきことです《

    ■     ■

 ――日本のBC級戦犯裁判を、当時の中国の国民党と共産党は、それぞれどう考えていたのでしょうか。

 「いずれにとっても二つの意味がありました。一つは同胞へのアピールです《

 「国民党政権の場合、日本の将兵の犯罪で特別な法廷を構成し、国際的な基準にのっとって法律で裁き、その法廷自体を、国民の記憶にすることが重要でした。われわれは野蛮な復讐(ふくしゅう)ではなく、欧米のような法廷で正しいやり方で裁く国だという記憶です《

 「当時は、制度は整っておらず、国際法がわかる弁護士も少なかった。だから相当の予算をかけ、人を動員し、南京や台北など10都市に法廷を作った。同時に、国民に対して、証拠や証言の提供を呼びかけました。国民党政権にはそのプロセスが大事でした《

 「もう一つの意味は、国際社会へのアピール。両政権は内戦をし対立する状態に陥りました。米国や旧ソ連など外からの援助が必要でした。どちらに中国を代表する正統性があるか。その争いの中で、日本人を法によって裁くことができれば正統性もアピールできる、と考えた。裁判は、法の支配が確立していることを見せる、一種のスペクタクルでした《

 「共産党政権の方は1950年、ソ連から戦犯の疑いのある日本人約千人の引き渡しを受けました。スターリンは、好きなように処罰を、と伝えたが、中国側は世界の反応を考えました。すぐ処刑などするとどうなるか。結局、共産党政権での裁判では処刑はありませんでした《

 「共産党は、国民党に勝ったばかり。あらためて共産党の方が、道徳がわかり、寛容であることを立証しようとした。死刑を実施した国民党と違い、文明的であると示そうとしました《

 「プロセスより判決が重要でした。記録映画は撮りましたが、長く公開もしなかった。国民党政権とは対照的です《

    ■     ■

 ――裁判には司法とは別の意義が込められたということですね。

 「中国は外国人の居留地などで治外法権を認めさせられてきました。しかし今や、自分たちは法の支配をちゃんとわかっているとアピールしなければいけませんでした。国内でも国際舞台でも、日本の戦犯裁判を通してそれがうまくできると考えていたのです《

 「国民党政権の裁判では処刑もあったが、どちらの政権の裁判でも釈放や無罪も多かった。裁判にはたしかに問題もあった。ただ、目的は復讐ではなく、法律を通して新しい秩序をつくることにあったのです。その点は、共産党も同じでした《

 ――新しい国造りに向けた意味を背負った裁判でもあったと。

 「中国での裁判が比較的寛大だった面について、中国が文明的だからという説明もありますが、他方、新たな建国という視点から必要でもあったのです《

 「当時の中国には、技術者はあまりいなかった。鉄道や発電所の運営や管理など日本の支配下で、日本人がその技術を持っていました。帝国から切断された後、その人たちがすぐ引き揚げては建国が進まない。国民党、共産党とも、それをよくわかっていました。両党とも技術者の日本人にいい待遇を与えました《

 「寛大さには道徳的な要素もあったが実用的な理由もあった。日本人が必要だったのです《

 ――場合によっては、日本の軍人さえも。

 「欧米から見ると、日本軍は負けた軍。しかし、中国に対して、軍事的に劣勢だったわけではない。国民党は日本の軍人の助けがあれば、大陸に戻れるかもしれないと考えました《

    ■     ■

 ――日本では、BC級裁判はどんな意味を持ったのでしょうか。

 「日本にとっては二つ目の『犠牲』になりました。一つ目が、広島、長崎への原爆の投下。それに続く位置づけです《

 「神話になったようなドラマがあります。『私は貝になりたい』です。これはBC級戦犯の犠牲者としてのイメージを定着させました。しかし、日本で研究者が指摘したように、実際には主人公のように2等兵で処刑された例はなかった。多くの日本人の記憶に残ったイメージと、研究でわかったこととはかなりズレがあるのです《

 ――日本では、東京裁判など戦犯裁判の評価はいまも論争になります。

 「東京裁判は、目的と実施に際して出てきた問題を分けて考えなければいけません。通訳などの点で問題はたしかにありました。しかし、暴力で復讐せず、新しい秩序をもたらそうとしたことは否定できません《

 「BC級裁判も同じようなことが言えます。実際的な側面もあったし、問題もあったけれど、道徳的な、寛容な思想も入っていた《

 ――同じ裁判が、各国で異なった意味を持ち、その後の歴史観にも影響していったのですね。

 「日本の歴史は、今の日本列島の中だけで作り上げられたわけではありません。自分の国が外からどう見られているか、それもまた自分の歴史の一部です。米国史をメキシコから見ると違う。でも、それが重要な視点であるように、日本だと、中国人がどう見ているかは大事です。それを理解することで互恵的な関係になれます《

    *

 Barak Kushner ケンブリッジ大学准教授(近現代日本史) 68年米国生まれ。大学卒業後、岩手で英語を教えながら日本語を学ぶ。著書にラーメンの歴史を書いた「Slurp!《など。

 ■取材を終えて

 社会が新しい自分に生まれ変わらなければならないとき、裁判や選挙は本来の役割を大きく超えて通過儀礼のような意味を持つのかもしれない。独裁政権の崩壊直後や内戦が終結したばかりの国々で、異様な熱気を帯びた裁判や選挙を取材するたびにそう感じた。その是非がどうであれ、避けがたいことのように見えた。

 戦犯法廷はとくにそうした面が強いのではないか。敵だった者への復讐心や新しい自分探しへのはやる思いが交錯する時、裁判は司法の枠の中に収まらないのだろう。

 (編集委員 大野博人)


    ◇

 クシュナーさんは、東京・学習院大のシンポジウム「戦犯裁判《(30日午後3時)で講演する。

 ◆キーワード

 <BC級戦犯裁判> 第2次大戦で非戦闘員や捕虜の殺害や虐待といった「通例の戦争犯罪《を命じた者や実行した者を裁いた。戦争の指導者らをA級として裁いた東京裁判と異なる。連合国側の中国や米英、フィリピンなどが開いた。共産党の中国とソ連を除き、約5700人が起訴され、死刑と無罪が約千人ずつだった。

 <私は貝になりたい> フランキー堺主演で58年に放映されたテレビドラマ。徴兵され2等兵となった理髪店主が、米兵の処刑を上官に命じられる。実際は軽傷を与えただけで、死に至ったのは主人公のせいではなかったが、戦犯として死刑判決を受ける。戦争の上条理を描く作品として高い評価を受けた。後に映画化もされた。