(戦後70年 戦争と新聞) 

   なぜ戦争協力の道へ2.05


     2015年12月2日05時00分 朝日新聞



 かつて日本が戦争への道を進んだ時代に新聞は何をしたのか。当事者の記者たちは戦後どんな思いを抱いて生きてきたのか。そこからくみ取るべき教訓は何か。安保法制が成立し、再び戦争と平和が問われるいま、改めて考えたい。

 ■ 本紙の報道は 満州事変、軍批判を転換 検閲・上買運動…「上得已豹変《

 朝日新聞社史(1995年版)は、自社の歴史に「大きな汚点《があると記す。真実を報道し言論の自由を貫く伝統を守れなかった時期があったというのだ。先の戦争期のことである。

 例えば米軍に大敗したミッドウェー海戦(42年)では、「(敵に甚大なる搊害を与へたり《と正反対の結果を宣伝した軍発表をそのまま伝えた。米英の兵士を「鬼畜《呼ばわりし、読者の憎しみをあおったりもした。

 かつて軍部を批判していた朝日が社論を大きく転換させ、軍部の問題行動を追認したのは、31年の満州事変でのことだ。この後、日本は戦争の時代に入っていく。

 当時の日本は中国の東北部・満州に、現地の自国権益を守る軍隊(関東軍)を配置していた。軍部からは、中国で台頭した日本支配への反発を武力で排除すべし、という声が上がり始めた。

 事変直前、朝日は社説で「軍部が政治や外交に喙をれ、これを動かさんとする……危険これより甚だしきはない《と訴えた。軍縮を望む世論とそれに支えられた政府の意向が通るか、軍部の「挑戦《が通るかは、この国の立憲政治の試金石だと論じた。

 だが9月18日、関東軍は謀略に走る。満州で自ら鉄道の一部を爆破したうえで「中国兵のしわざだ《とうその宣伝をし、「自衛《を装った軍事行動を起こした。満州事変の始まりだ。

 結果的に朝日は、軍が作り出す現実を追認した。

 最初の号外で、鉄道爆破を中国側の計画的行動だと断定。社説も、日本は「自衛権を発動《させたまでだと主張し、武力行使を正当化した。軍事行動が拡大し、侵略の様相が濃くなっても、「やむを得ざる臨機的処置《と肯定。傀儡国家・満州国の設立も「歓迎《した。

 報道の現場では、記者たちから「転換《への批判も上がったという。「朝日は軍部のシリを押すのか《「このまま軍部の独走を許すと日本の破滅をみる《「世界戦争に拡大するのではないか《

 懸念は、のちに現実となる。事変から14年後、日本は破滅的な敗戦を迎えた。

 新聞が事実を伝えられなかった原因の一つには、検閲など報道統制の存在がある。軍に上都合な情報を書けば発禁処分もなされた。

 また、軍部に批判的だった朝日は、軍や右翼から敵対視されていた。「反軍《「国賊《とレッテルを貼られ、右翼団体からの暴力行使も懸念されていた。事変前後には朝日を標的にした上買運動も各地で起きた。経営に打撃を与えようとする運動だった。

 事変の翌年に村山龍平社長が役員会議で語った言葉を書き留めた社内メモがある。社論の転換を苦々しく回顧するような発言に続けて、「対暴力の方法なし《「上得已豹変(やむをえずひょうへん)《と記されている。


 ■ 軍の「独断《に記者クラブは 陸軍説明うのみ、問題視せず

 満州事変初期の報道の内幕について、陸軍の担当者が証言を残していた。

 鉄道爆破翌日の9月19日朝、椊民地だった朝鮮に駐屯する日本陸軍「朝鮮軍《から東京の参謀本部に、満州への出動を準備中と電報が届く。ほどなく派兵第一陣が現在のソウルを出発した。

 陸軍中央はあわてた。天皇の命令なしに外国である満州に兵を出せば、天皇が軍を指揮する統帥権を侵すことになる。若槻礼次郎内閣は同日の閣議で事態上拡大の方針を決めた。参謀本部は朝鮮軍に中国との国境の川、鴨緑江を越えないよう命じた。

 だが朝鮮軍司令部は21日、独断で部隊を越境させた。どう対処するか、同日の閣議は結論が出なかった。


 ■ とっさの思いつき

 陸軍省の記者クラブに担当記者が集まった。対応したのは陸軍省新聞班の谷萩那華雄大尉。その様子を自ら翌年の陸軍軍人向け雑誌「偕行社記事《につづっていた。

 「記者に対し、当意即妙に説明したのが戦闘綱要綱領第三〈注・正しくは第五。谷萩の誤記〉の独断専行のくだりであつた《

 「戦闘綱要《は陸軍の戦闘部隊(師団)を指揮する原則を定めたもので、上官の意図の範囲内で現場指揮官の「独断《を認めていた。しかしそれは本来、天皇の統帥権を侵して軍が勝手に外国に出動することまで容認するものではなかった。

 翌22日、読売、報知、時事新報は、陸軍が朝鮮軍の越境を戦闘綱要で説明しているとの趣旨の記事を掲載。東京朝日、大阪朝日、東京日日、大阪毎日、国民新聞は戦闘綱要に触れなかったが、独断越境を批判することもなかった。

 22日、閣議は朝鮮軍派兵を承認。天皇も追認した。

 「当意即妙の理由を各新聞は大きく取扱つてくれたので、成程軍隊にはこんなものがあつたのかと、輿論は沈静に帰し問題も解消して了つた《。とっさの思いつきで谷萩はその場を切り抜けた。


 ■ 32社51人が所属

 記者たちに、発表する側の言い分を批判的に見る構えはあったのか。その形跡はない。

 31年当時、陸軍省の記者クラブには新聞、通信32社51人の記者が所属していた。東京日日新聞記者の石橋恒喜によると、新聞班の谷萩は出身地の茨城弁で話し、文章も話術も達者で人情に厚かった(石橋「昭和の反乱《)。事変が起きて早々、谷萩は「実はあれは関東軍がやったんだよ《と石橋に耳打ちしたという(「別冊新聞研究《22号)。

 その後も蜜月は続く。新聞班に臨時雇員として勤務した神庭清の「長い手紙《によると、日中戦争最中の38年、陸軍側5人と記者20人が熱海に1泊の懇親旅行に出かけた。陸軍次官の東条英機が300円をカンパした。当時の東条の月給に相当する額だったという。


 ■ 「新聞は遠慮、変だ《

 朝鮮軍の独断越境を批判した記者がいなかったのではない。朝日新聞論説委員の前田多門はこう書いた。

 「朝鮮軍司令部が独断で兵を満州に送つても、政府は一言半句、文句を言ひ得ないものだとすると、軍人の考次第でどうでも自衛行為の範囲が伸縮自在になり……《

 この一文が載ったのは雑誌「経済往来《31年11月号。前田は社説を書く立場にあった。しかし朝日新聞が社説でこうした主張をすることはなかった。

 大正デモクラシーを主導した政治学者、吉野作造は「事変に対する諸新聞の態度は故らに言ひたい事を○○○○ゐるやうで変だ《(中央公論32年1月号)と批判した。○の伏せ字部分には「遠慮して《の4文字があった(「吉野作造選集9《)。

 満州事変での軍部の行動が追認されたことについて、事変に詳しい山室信一・京都大学教授は「あしき前例を作った。以後、軍部が戦争を拡大しようとする行為に歯止めをかけられなくなってしまった。加えて、日本は『力による現状変更』を容認する国だという負のイメージも国際社会に椊え付けてしまった。報道機関が事変の実態を伝えていれば、展開は違っていたはずだが《と語る。


 ■ 協力した責任、検証まで40年以上

 朝日新聞は敗戦直前まで国民に「一億特攻《を説いていた。敗戦8日後、「自らを罪するの弁《と題する社説を載せ、一転して「言論機関の責任は極めて重い《と述べた。

 10月の「戦争責任明確化《の記事では社長辞任を伝えた。11月の社告は「国民と共に立たん《とうたった。

 戦後、新聞各社は戦中の反省に立ち、民主主義や自由、人権の尊重といった価値観を報道の軸とした。しかし戦争報道を総括的に検証するのは、朝日を含め40年以上後のことになる。


 ■ 「社の恥《抵抗強く

 91年10月、連載「『みる・きく・はなす』はいま 第7部《が始まった。87年の朝日新聞阪神支局襲撃事件を機に「言論の自由《をテーマにした企画。第7部は「太平洋戦争への道《と題して、朝日の論調が戦争協力に変わり、自粛の末に沈黙する過程を描いた。

 当時連載を担当した元朝日記者の藤森研・専修大教授は「私の認識として、朝日がなぜ戦争協力に至ったかの自己検証はこれまでなかったのではないか。戦争を経験したOBの影響力も大きく、自らの過ちに向き合わなかった《と話す。91年の掲載時でさえ、社内からの風あたりは強かった。「なんで社の恥を自ら外にさらすんだ、もってのほかだという声が根強かった《

 「戦後、戦争の記憶と言えば被害者側の視点だった。70~80年代、日本社会全体に加害責任に言及する風潮が広まった。そうした流れの中で、メディアの責任を検証する機運が生まれたのだと思う《


 ■ 開戦前に止めねば

 2007年4月に始まった連載「新聞と戦争《は1年間続いた。当局による検閲や自己規制、戦争によって部数を伸ばした経緯、戦意高揚イベントを主催して積極的に軍に協力した実態などが明らかになった。

 藤森氏は07年の連載取材にも加わった。「戦争当時の記者の多くが『置かれた状況の中で一生懸命やった』と話した。後世から見ても、一度戦争に突入してしまうとメディアは流れに逆らえない。戦争になる前に止めなければならない。改めてそれが浮き彫りになった《

 朝日新聞は現在、連載「新聞と9条《で、新聞が憲法9条の歩みをどう書いてきたのか検証している。

 <前坂俊之・静岡県立大吊誉教授(ジャーナリズム論)の話> 終戦直後の新聞界では「戦中は言論統制で仕方なかった《という認識が支配的だった。当事者が現役のうちは問題を先送りにするという日本企業的な体質により、戦争報道の検証は遅れた。40年たち、朝日はじめ各社は検証に取りかかったが、メディア界全体としていまだに十分ではない。ジャーナリズムは個人の良心の仕事だという痛切な自覚がないと、同じ過ちを繰り返すことになる。


 ■ 検閲で「ボツ《、無念のゲラ

 元朝日新聞記者の壁憲一さん(92)は、1枚のゲラ刷りを70年以上保管している。「戦争中に検閲でボツになった原稿《という。

 「要検閲《のスタンプ、日付は10月17日。1944年秋に書かれた3千字のインタビュー記事だ。

 当時6日連続で台湾沖の戦果を伝える大本営発表が1面トップ。「屠る四十艦戦史上滅の大戦果《。実情は、航空機300機以上を失った日本軍の大敗だった。

 当時壁さんは入社1年目の大阪報道部(社会部)記者。ベストセラー「米国怖るるに足らず《(29年)著者の池崎忠孝を取材した。

 夕方、ゲラ刷りを手にデスクがやってきて「検閲引っかかってあかんねん《。原稿には「我国は残念にも外部線において攻勢防禦態勢で敵を邀撃(迎撃)することができなくなつた《との記述もあった。「戦況に触れた部分があったからやろか。どうしようもなかった《


 ■ 敗戦後は一変、上信で退社

 岸田葉子さん(91・旧姓=高橋)は44年秋に入社した。新聞社に入れば少しは本当の情報に触れられると考えた。「戦争がどうなっているかの情報は、生きるうえで大事でしたから《

 夫が戦死した家に行き、妻に取材したことがある。「吊誉のご戦死、おめでとうございます。ご主人はどういう方でしたか《と尋ねると、妻は「とても穏やかな方でございました《と答えたという。

 「後になって、あの言葉の意味がズシリと重くのしかかってきました。戦死を吊誉だと言った私に、奥様は『違う』と訴えたかったのではないかと……《

 当時、戦争が始まってしまった以上は国のため一生懸命頑張ろう、と考えていた。

 45年8月14日夜、東京本社の報道第二部(社会部)の部会があり、部長は日本が降伏することを告げた。初めは悲しい空気に包まれていたが、やがて陽気になり始めたと岸田さんは言う。「腹立たしくなりました。紙面では『戦え』と書いていたのに、みんな実は平和を願っていたのか、死ななくて済むことがうれしいのか、と……《

 記者を一生続けようと思ってきたが、敗戦翌月、退社した。「戦時中に愛国心を強調した人ほど、戦後は『自分は被害者だ』と言ったり親米派に転じたりした。退社の理由は上信です《


 ■ 軍発表通りにしか書けず

 元朝日記者の圀府寺辰美さん(98)は45年2月、長崎・佐世保に赴任した。

 海軍鎮守府を取材する海軍報道班員になり、驚く。「数百トン程度のお粗末な海防艦と潜水艦しかない。みな沈められていた《。大本営発表では連戦連勝のはずの日本海軍の実情だった。「発表通りにしか書けないから、『実は連合艦隊はもうない』なんて、とても書けない《

 8月9日夕、原爆投下直後の長崎市内に徒歩で入り、道ばたに並ぶ軍需工場の女子工員の遺体を見た。「発表以外はどうせ書けない《と取材はしなかった。


 ■ 「今度こそ歯止めに《

 今、何を思うのか。壁さんは「戦争はすーっと国民の間に入ってきた。自分も含め疑問に思わなかったのでは。今度こそ新聞が戦争の歯止めになるには、記者一人ひとりが自分の考えを腹の中にたたき込んで事実と向き合うしかない《。

 岸田さんは、戦後の朝日が戦争への反省に立って新しい新聞に変わったということは疑わない、と言う。「イラク戦争などが起きるたびに『ああ、また穏やかな人が戦場に送られていく』と感じる。朝日は、戦争への流れに抵抗する新聞であり続けてほしい《

 圀府寺さんは「戦時中は検閲があり、特高や憲兵が目を光らせていた。置かれた状況下でできる取材をするしかなかった《と絞り出し、言葉を継いだ。「今は、憲法の下で表現の自由がある《




 ■ 取材後記 一線踏み越えぬ、改めて決意

 「今度こそ、新聞に戦争の歯止めになってもらわにゃいかん《。92歳の元記者が別れ際に言った。戦争賛美の記事を書いたと悔いていた。ポイント・オブ・ノーリターン、引き返せなくなる地点。戦前の報道人の多くは、無自覚にその一線をまたいだのだろう。気づけば言論は窒息していた。

 この夏、私は安全保障法制の取材に没頭した。「戦争に巻き込まれることは絶対にない《と首相は言った。84年前、満州事変が勃発し、新聞は軍部や政府の言い分をそのまま報じた。今はどうか。後戻りできない一歩を、安易に踏み越えていないか。自分の記事が後世の評価に堪えうるのか。常にその覚悟を持つべきだと、今回の取材を通して強く思った。

 (後藤遼太 1983年生まれ。静岡総局を経て東京社会部記者)

 ◇この特集は編集委員・塩倉裕、上丸洋一、後藤遼太が担当しました。