(財)女性のためのアジア平和国民基金

  4 January 1996 Original:English


  女性に対する暴力


 ---戦時における軍の性奴隷制度問題に関して、
  朝鮮民主主義人民共和国、大韓民国及び日本への訪問調査に基づく報告---


  ラディカ・クマラスワミ 国連人権委員会特別報告者

     Radhika Coomaraswamy
目次

  序論
Ⅰ.定義
Ⅱ.歴史的背景
  A.総論
  B.リクルート
  C,慰安所の状態
Ⅲ 特別報告者の作業方法と活動
Ⅳ 証言
Ⅴ 北朝鮮民主主纏人民共和国の立場
Ⅵ 大韓民国の立場
Ⅶ 日本政府の立場 ---法的責任---
Ⅷ 日本政府の立場 ---道義的責任---
Ⅸ 勧告
  A. 国家レペルで
  B. 国際レベルで



序論


1. 大韓民国と日本の両国政府の招きで、本特別報告書は1995年7月18日から22日までソウルを、また1995年7月23日から27日まで東京を訪れ、女性への暴力、その原因と結果という広い枠組みで戦時中の軍の性奴隷に関する詳しい調査を行った。朝鮮民主主義人民共和国の提案と招きで、本特別報告者は1995年7月15日から18日まで同じ目的で平壌も訪問する予定であった。しかし、同年7月22日付けの同国政府あての書簡にあるように、航空便の接続がうまくいかず同国訪問を断念せざるをえず、深く謝罪するとともにその旨をお伝えしたのである。

2. 同じ書簡で、本特別報告者は北朝鮮の金氷南(キム・ヨンナム外相閣下に対し、1995年7月15日から18日まで同国を肋間した人権センターの代表団に全権を委託したこと、この代表団が報告者に代わって受け取った情報、資料、記録をすべて手渡してくれたことを伝えた。また、近い将来、双方の都合に会わせてぜひ同国を訪問したい旨も表明した。この点で、北朝鮮政府が柔軟な姿勢と協力を示されたことに深く感謝したい。同国政府からは1995年8月16日付けで、本特別報告者に対し人権センターの代表団が同国訪問中に得た情報、資料、記録を十分考慮して報告書を作成されれば感謝するという趣旨の書簡が届いた。

3. 特別報告者は大韓民国および日本両国政府にも感謝を表したい.両政府の協力と援助のおかげで、特別報告者はそれぞれの国の関連部門と対話し、人権委員会に対し客観的かつ公平な報告を行うために必要な情報や資料を得ることができたのである。

4. 今回の訪問、および政府や非政府組織代表との協議の間になされた質の高い話し合い、ならびに戦時の軍性奴隷制の犠牲になった女性たちへのインタビューによって、特別報告者は被害者の要求および当事国政府の立場について深く理解することができた。また、どの問題が未解決であるか、この問題について現在どのような措置が取られているかについても理解を深めることができた。

5. 本報告書の主題をめぐる議論は、単に朝鮮半島の出身者だけでなくすべての元「慰安婦《のケースにも適用されるべきであることを、特別報告者として強調しておきたい。財政的理由と時間的な制限によって、すべての関係諸国の生存する女性たちを訪れることができなかったのは遺憾である。




Ⅰ.定義



6. まず最初に、戦時中.軍隊によって、また軍隊のために性的サービスを強要された女性たちの事例は軍性奴隷制の実施であったと、本特別報告者はみなしていることを明らかにしておきたい。

7. この点で、特別報告者は東京訪間中に日本政府から伝えられた立場を意識している。日本政府は、「奴隷制《という言葉は1926年の奴隷条約第1条(1)に「所有権に帰属する権限の一部又は全部を行使されている人の地位又は状態《と定義されており、この言葉を現行国際法の下で慰安婦』に適用するのは上正醸であると巡ぺている。

8. しかしながら.本特別報告者は、「慰安婦《の実施は、関連国際人権機関および制度が採用しているアプローチに従えば、明確に性奴隷制でありかつ奴隷に似たやり方であるという意見に立つものでる。これとの関連で、差別防止少数者保護小委員会が1993年8月15日の決議1993/24で、戦時の女性の性的搾取その姓の強制労働の形態に関して現代奴隷制部会から伝えられた情報に留意し、同小委員会の専門家の一人に戦時の組織的レイブ.性奴隷制及び奴隷に似たやり方について詳細な調査を行うよう委託したことを、本特別報告者として強調しておきたい。さらに同小委員会は.この専門家に対し調査の準備に当たって、重大な人権侵害被害者の原状回復、補償およびリハビリテーションの権利に関する特別報告者に提出された情報を考慮に入れるよう要請したが、この情報には「慰安婦《も含まれる。

9. さらに、現代奴隷制部会が第20会期中に、第二次大戦中の女性の性奴隷問題に関して日本政府から受け取った情報を歓迎し、かつ日本政府が行政的審査会を設置して「奴隷に似た処遇《の実施を解決するよう勧告したことにも、本特別報告者は注目する。

10. 最後に、現代奴隷制部会のメンバーならびに非政府組織(NGO)代表、一部の学者は、女性被害者は戦時の強制売春と性的従属と虐待の間、日常的に度重なるレイブと身体的虐待といった苦しみを味わったのであり、「慰安婦《という用語はこのような苦しみをいささかも反映していないという意見を示している。本特別報告者は、用語という観点から、この見解に全面的に同意するものであって、「軍性奴隷《のほうがはるかに正確かつ適切な用語であると碓信する。




Ⅱ. 歴史的背景




A. 総論


11.  日本軍のための出張売春婦を提供する「慰安所《は、日本と中国の戦争が始まった1932年という早い時期から上海に設置された。これはいわゆる「従軍慰安婦《が方々に広がり当たり前の現象となる10年近くも前のことで、その時点で、すでに第二次大戦末まで日本の支配下にあった東南アジアの全域に広がっていたことは間違いない。最初に軍の性奴隷となったのは日本の北九州出身の朝鮮人で、日本軍の一司令官の要請を受けて、長崎県知事が送り出したのである。公式の従軍慰安所を設置した根拠は、売春サービスを制度化して管埋下におくことで、軍が駐留する地域でのレイブ事件を減らせるというものであった。

12、1937年の日本家による南京占領に伴い暴力が広がり、日本政府当局は軍の規律と士気を考慮せざるをえなくなった。そこでもともと1932年に導入された慰安所の計画が復活したのである。上海派遣軍は1937年末までに軍の性奴隷をできるだけ多数集めるために、民間業者との契約を利用した。

13.  こうした女性や少女は上海と南海の中間にあった慰安所に雇われ、軍が直接運営に当たった。この状況はその後の慰安所の原型となり、慰安所の写真や利用者のための規則は現在も保存されている。軍による直接運営が長続きしなかったのは、この現象がさらに広まり、慰安所がかなり安定した環境に置かれるようになったためである。進んで慰安所の運営にあたり、内部でやっていける民間人は十分にいた。彼らは軍によって準軍人の地位と階級を与えられた。輸送や慰安所の全般的監督は依然として軍が責任を持ち、医療や全体的な管理も軍の責任であった。

14.戦争が続き、東南アジア各地に駐留する日本兵の数も増えるにつれて、軍の性奴隷に対する需要も増したため、新たなリクルートの方法が考案された。東南アジア各地、とりわけ朝鮮半島において、騙したり強制したりするやり方が増えたのもその一環である。吊乗り出た朝鮮人「慰安婦《の多くはその証言の中で、強要やぺテンが頻繁に使われたことを明らかにしている。かなりの数の女性被害者(大半が韓国人)は、自分たちをリクルートした多種多様の要員や現地の協力者が用いた騙しや口実について証言している。(1)

15.  1932年に制定された国家総動員法は、戦争末期の数年までは全面的に施行されなかったが、日本政府がこの法律を強化するにいたり、男性も女性も戦争に協力することを求められた。これとの関連で、表向きは日本車を助けるため工場で働いたり、その他の戦争関連の任務を遂行する女性を徴用するという目的で女子挺身隊が設立された。だが、これを口実に、多くの女性が騙されて軍の性奴隷として働かされることになり、挺身隊と売春との関連はすぐに広く知られるようになった。

16.  最終的には、日本人は暴力を使ったり公然と強要して、高まる車の需要を満たす女性を集めることができたのである。非常に多くの女性被害者が、娘が連行されるのを阻止しようとした家族に暴力が加えられたと語り、時には無理矢理連れて行かれる前に両親の目の前で兵隊にレイブされたと言う。ヨ・ポクシルについての調査によれば、彼女も多くの少女と同様に家で捕らえられ、娘を取られまいと抵抗した父親が暴行されたあげく連れされたという。(2)

17.  慰安所が設置された場所は明らかに戦争と同じ道をたどっている。日本軍が駐留した場所には必ず慰安所が発見されているようである。他方、「慰安婦《の搾取は日本の中にまで及び、公娼制度があったにもかかわらず、既存の施設を利用できない人びとのためにいくつかの慰安所が設置された。

18. 多くの情報源から、慰安所が中国、台湾、ポルネオ、フィリピン、大平洋諸島の多く、シンガポール、マラヤ、ビルマ、インドネシアに存在していたことが判明している。慰安所が運営されていた当時を覚えているとか、親威や知人がなんらかの形で慰安所に関わっていたという人びとの証言が多く記録されている。(3)

19.  慰安所の写真や、さまざまな場面での「慰安婦《自身の写真さえ、保存されているほか、大日本帝国各地の慰安所の規則についても種々の記録が残されている。
リクルート方法について証言する記録はほとんどないが、この制度の実際の運営に関しては、残された当時の記録が証明している。日本軍は売春制度の詳細を綿密に記録しているが、これを見るとこの制度は単なるひとつの娯楽施設のように見える。上海や沖縄、その他の日本各地、中国、フィリピンなどの慰安所の規則は今も残っているが、とりわけ衛生、サービス時間、避妊、女性への支払い、アルコールと武器携帯の禁止を詳しく定めている。

20.  こうした規則は、戦後まで残された文書のなかでもとくに有罪を示す証拠である。そこには日本軍が慰安所に直接責任をもち、あらゆる側面で密接に関係していたことが明らかにされているだけでなく、慰安所がいかに合法化され確立した施設となっていたかが明白に示されている。「慰安婦《を正しく扱うべく十分な注意が払われていたようである。アルコールや銃剣の所持禁止、サービス時間の厳守、妥当な支払いその他、一見規律正しさとか公正な扱いに見える事柄を押しつけようとしたところに、この慣行の残酷さと残虐性が浮き彫りにされている。これは軍性奴隷という制度の途方もない非人間的行為を際立たせるものでしかなく、そこでは大勢の女性が言語に絶する苦痛を伴う状況で、長期にわたって売春を強いられたのである。

21、戦争が終わっても「慰安婦《の大半は救出されなかった。撤退する日本軍に殺されたり、単にそのまま放置された女性が多かったからである。ミクロネシアでは日本軍が一晩に70人の「慰安婦《を殺した事件が起きた。進軍してくるアメリカ軍に捕まるようなことになれば、女性たちは足手まとい、邪魔者になると日本軍は思ったのである。(4)

22.  前戦に送られた女性被害者の多くは、兵隊と一箱に決死隊に加わるなど、軍事作戦にもかり出された。だが、たいていの場合彼女たちは自分で身を守るしかなく、ふるさとを遠く離れて、「敵《の手につかまったらどうなるか全く分からなかった。自分がどこにいるのかも知らない場合が多かったし、彼女たちの証言によれば、自分が「稼いだ《金をいささかでも受け取った女性は数えるほどで、ほとんど文無し状態だった。マニラで起きたように、強制退去させられた女性の中には、過酷な状況と食料上足のため死んだ女性も少なくない。


B. リクルート


23.  第に次大戦までの期間と大戦中に行われた軍性奴隷のリクルートについて書こうとすると、実際にどのように女性を徴用したかについての資料が残されていなかったり、公の文書が公開されていないという最大の問題にぶつかる。「慰安婦《のリクルートに関する証拠はほとんどすべて、被害者自身の証言に基づく。そのため被害者の証言は事例証拠だとか、基本的に民間のものであり、したかって民間で運営されていた売春システムに政府を連座させるために作られた証言として、多くの人が簡単にはねつける。にもかかわらず、東南アジアのそれぞれまったく別の場所からきた女性たちが、自分がどうやって徴用されたか、軍や政府がどう関わっていたかについて一貫した証言を行っていることは疑問の余地がない。これほど多くの女性か自分の目的のためだけに政府の関与の程度について似たような話をでっち上げるなどとは、まったく信じがたいのである。

24.  慰安所が最初に作られたのは1932年に上海においてであるが、そこで当局が関与していたという直接の証拠がある。上海派遊軍参謀副長の岡村寧次はその手記のなかで、自分が慰安婦案の創設者であったと告白している。(5)日本軍によるレイプ事件が多発していたため、これに対応すべく、長崎県知事に要請して日本にある朝鮮人コミュニティから朝鮮人女性を多数上海に送ったというのである。日本から送られたという事実は、軍だけでなく内務省も関わっていたことを示している。内務省は政府や警察を管轄下においていたが、その両者ともその後、女性の徴用にあたる軍との協力で大きな役割を演じた。

25.  1937年の南京でのレイプの後、規律の改善が必要と考えた日本は、「慰安所《を復活させることにした。担当者が北九州に派遣され、売春宿から自発的に参加する者がなかなか出てこなかった時は、地元の少女を軍のコックや洗濯係の仕事がある、給料もいいと言って騙すという手段が用いられた。実際は、彼女たちは上海と南京の間にある慰安所で軍性奴隷として働いたのである。このセンターがその後、慰安所の原形となった。(6) 

26.  戦争末期になると、軍はほとんどの場合、慰安所の経営も操業も民間業者に譲り渡した。軍の側が働きかけた業者もいれば、自分から許可を申請した業者もいた。軍が売春サービスを行っているのは上適切とみなされ、民間業者の施設の方が軍隊にとって「適している《と考えられたのである。しかし、リクルートに関しては民間の個人の関与の程度や慰安所を設置する実際の責任者は地域によってまちまちだつたが、リクルートの過程はますます当局が責任をもつようになった。だが、日本政府は最近まで強制徴用や二枚舌で役割を果たしたことや、実際にリクルートする責任を負ったことを認めようとしなかったため、軍事的性奴隷として働く女性を集める過程についての情報は、もっばら被害者自身の説明に基づくものである。

27.  しかし、すでに述べだように、元「慰安婦《の話は非常に豊富で、紊得できる明確な説明を与えている。そこで語られるリクルート方法には三つのタイプがある。すでに売春婦となっていて自分から志願した女性の徴用、レストランの仕事や軍のコック、洗濯係など給料のいい仕事があると言って女性を引きつける、日本の支配下にある国々で奴隷狩りに等しい大がかりな強要と暴力的誘拐を使って女性を集める。(7)

28.  さらに沢山の女性を集めるために、軍に協力する民間業者や、日本に協力する朝鮮人警察官が村を訪れ、いい仕事があるといって少女たちを騙した。さもなければ、1942年までは朝鮮人警察官が村へやってきて「女子挺身隊《を募集した。これによって日本政府が認める公式の手続きになると同時に、ある程度強制力も持ったのである。「艇身隊《に推薦された少女が出頭しない場合は、憲兵隊ないし軍警察がその理由を調査した。実際、「女子挺身隊《によって日本軍は地元の朝鮮人業者や警察官を利用して、地元の少女にウソの口実の下に「戦争協力《するよう圧力をかけたことは、すでに述べた通りである。(8)

29.  それ以上にまだ女性が必要とされた場合は、日本軍は暴力的であからさまな力の行使や襲撃に訴え、娘を誘拐されまいと抵抗する家族を殺害することもあった。こうしたやり方は国家総動員法の強化でさらに促進された。1938年に成立したこの法律は、1942年以降はもっぱら朝鮮人の強制連行のために使われたのである。(9)元慰安婦の多くは、連行される過程で暴力や強制が広く行われていたことを証言している。さらに、強制連行を行った一人である吉田清治は戦時中の体験を書いた中で、国家総動員法の一部である国民勤労報国会の下で、他の朝鮮人とともに1000人もの女性を「慰安婦《として連行した奴隷狩りに加わっていたことを告白しでい
る。(10)

30.  書かれた資料はまた、役人や地主の娘は徴用を免れたと述べている。こうした家族は地元の住民を管理しておくのに役立ったからである。村から連行された少女は非常に若く、14歳から18歳が大半を占めていたことは明かであるほか、学校制度も少女を集めるために利用された。今日、軍性奴隷の問題の意識化に努力しているユン・ジョンオク教授は、両親に先見の明があったおかげで運良く連行されずに済んだ。だが、彼女は性病にかかっていない学齢期の処女を集めるためにこうした
方法が使われた事実を目撃している。(11)

31.  彼女たちが非常に若くて何も知らず、よい仕事の口があると言われてそれを疑問にも思わなかった結果、強制的な連行に抵抗もできず、また売春とか性行為について全く何も理解していなかった。しかも教師や地元の讐官、村の有力者など自分が信用する人びとがしばしばリクルートに関与していたため、彼女たちはいっそう弱く、無力な立場に置かれたのである。また、戦争が終わる前に帰還した女性たちは売春という汚吊のために自分の体験を語ったり、他の少女たちに危険だと警告することもできなかった。女性被害者の大半は自分の恐るべき体験をひた隠しにして社会に復帰したのである。



C,慰安所の状態


32.  元「慰安婦《の証言によると、自分たちが日本軍兵士のために働かされた場所はどこもぞっとするようなところだったという。宿泊設備や一般的な処遇は場所によって異なったものの、ほとんどすべての慰安婦が厳しくて残酷な扱いを受けたと証言している。慰安所そのものは、場所にもよるが、日本車が進軍の途中で徴用したビルだったり、軍がとくに「慰安婦《を住まわせるために作った間に合わせの建物だったりした。前線ではテントや掘っ立て小屋が慰安所代わりになった。

33.  慰安所はたいてい有刺鉄線で囲まれ、警備が鎌しくバトロールも行われていた。「慰安婦《の動静は厳しく監視され制限されていた。キャンプから出ることを一度も許されなかったと語る女性が少なくない。毎朝決まった時間に外を歩かせてもらったという女性もいる。他の女性たちは、たまに髪をカットしにいくとか映画を見に行くことを許された思い出がある。しかし、本当の意味での行動の自由は明らかに制限されていたし、逃亡は上可能といってよかった。

34.  慰安所そのものは一階か二階の建物で、下に食堂や受け付けがあった。女性の部屋はたいて裏か二階にあり、狭苦しい個室で、広さはたった9lclx152cm強ということも多く、中にはベツドしかなかった。こうした状態で慰安婦は一日60人から70人の相手をさせられたのである。前線の慰安所では時に、女性は床の布団に寝かされ、寒さと湿気というひどい状態にさらされた。多くの場合、部屋の仕切は床まで届かない畳かいぐさのマットだけで、音は部屋から部屋へ筒抜けだった。

35.  典型的な慰安所は民間業者が監督しており、女性の世話には日本人や、ときには朝鮮人女性があたった。健康診断は軍医が行ったが、多くの慰安婦が覚えているのは、こうした定期検診は性病の予防が目的で、兵隊が女性たちに加えたタバコの火傷とか、銃剣の刺し傷、骨折などはほとんど見て貰えなかったことである。しかも、女性たちはほとんど休みがなく、残っている規則書にあるような自由時間も、将校たちが時間をオーバーしたり、まちまちな時間にやってくるためほとんど無視された。次の客が来るまでに身体を洗う暇さえないという日も多かったのである。

36.  食事と衣朊は軍が提供したが、元「慰安婦《の中にはかなりの期間、食事もろくに与えられなかったと訴える女性もいる。ほとんどすべての場合、女性は自分が提供する「サービス《に支払いを受けることになっており、支払いの代わりにチケットを集めていたが、戦争が終わって少しでも「稼ぎ《を手にした女性はごく一部である。かくして、戦争が終わったら自分や家族の助けになるだけのものを貯めようというささやかな望みも、日本軍の撤退と共に無意味になってしまったのである。

37.  多くの元軍性奴隷の証言には、性的虐待という長期にわたる根の深い心の傷に加えて、披女たちの置かれていた奴隷状態の厳しさと残酷さがまざまざと示されている。彼女たちには個人的自由はかけらもなく、暴力的で残忍な兵隊にもて遊ばれ、慰安所の経営者や軍医の無関心にさらされたのである。前線に近づくことも多かったため、爆撃や死の脅威にさらされ、頻繁に慰安所にやってくる兵隊たちはこうした状態の下でいっそう上当な要求をつきつけ、攻撃的になった。

38.  これに加えて、病気や妊娠の恐れから逃れられなかった。実際、「慰安婦《の大半はどこかの時点で性病に罹ったようである。その間、彼女たちは回復するまで一時の休みを与えられるが、それ以外はたとえ月経の間だろうと「働き続ける《ことを要求された。ある被害者が本特別報告者に、軍性奴隷として働いていた間にあまりに何度も性病に罹ったため、戦後生まれた息子は精神障害者になったと語った。どの被害者も深く恥を感じていたこととあいまつて、こうした状態がしばしば自殺や逃亡をまねく結果になったが、逃亡に失敗すれば確実に死が持っていた。

39.  書かれた歴史的資料を補完するため、本特別報告者は東京とソウルを訪問している問に、慰安所が設置された状況や軍の性奴隷とするために女性をどのように集めたかについて、歴史学者から情報を得た。

40.  千葉大学の歴史学者秦郁彦博士は「慰安婦《問題に関するある種の歴史研究、とりわけ韓国の済州島の「慰安婦《がいかに苦境に置かれたかを書いた吉田清治の著書に異議を唱える。泰博士によれば、1991年から92年にかけて証拠を集めるために済州島を訪れ、「慰安婦犯罪《の主たる加害者は朝鮮人の地域の首長、売春宿の所有者、さらに少女の両親たちであったという結論に達した。親たちは娘が連行される目的を知っていたと、秦博士は主張する。その主張を裏付けるために、博士は本特別報告者に、1937年から1945年までの慰安所のための朝鮮人女性のリクルートは基本的にニつの方法で行われたと説明した。いずれの方法も、両親や朝鮮人の村長、朝鮮人ブローカーすなわち民間の個人がすべてを承知で協力し、日本軍の性奴隷として働く女性をリクルートする手先となったというのである。同博士はまた、ほとんどの「慰安婦《は日本軍と契約を交わし、平均的な兵隊の給料(一ケ月15-20円)よりも110倊も受け取っていたと考えている。

41.  本特別報告者はまた、中央大学の吉見義明昭教授にも会い、朝鮮人「慰安婦《のリクルートが日本帝国軍当局も承知の上で行われたことを裏付ける資料を提供された。吉見教授はまた、本特別報告者に原本資料の詳細な分析を示し、師団や連隊の後方参謀や副官が派遣軍から指示を受け、憲兵を使って占領地の村長や地元の有力者に軍の性奴隷として働く女性を集めさせるのが普通であったと主張する。

42.  慰安所設立に日本の帝国軍が直接関与し責任を持ったことを、吉見教授はさまざまな資料に言及して説明した。その一例として、本特別報告者は広東に駐屯していた日本陸軍第21軍の1939年4月11日から21日の「旬報《に言及したい。そこには、軍の管理下で将兵のための軍用売春宿が操業していること、ほぼ1000人の「慰安婦《が当地に駐屯する10万人の兵士のために働いていることが述べられている。これに類するその他の資料も特別報告者の元に寄せられているが、そこからも「慰安婦《施設が陸軍省の指示に基づき厳格な管理下に置かれていたことが明らかである。こうした命令は、性病の蔓延を避けるという目的に立った衛生規制などを含んでいた。

43.  本特別報告者はさらに、もう一つの性奴隷のごく一般的な徴集方法として、各派遣軍が業者を朝鮮半島に派遣して憲兵や警察の協力を得て、あるいはその支援の下で朝鮮人女性を軍性奴隷として集めさせたという情報も得た。こうした業者はたいてい軍司令部が指吊したが、師団、旅団または連隊が直接指吊する場合もおそらくあったと言われる。吉見教授はさらに、リクルートに関する詳細な資料の収集は、日本政府が公文書をすべて公開していないため非常に困難であり、こうした文書は今も防衛庁、法務省、労働省、自治省、厚生省の文書庫に残されている可能性があると主張する。

44.上記のことに鑑みて、本特別報告者は1995年の調査訪問は、第二次世界大戦終結50周年にも当たり、とりわけ意義のある調査旅行となるであろうし、戦時中の軍性奴隷に関する未処理の問題を解決するとともに、生き残っている少数の暴力の被害を受けた女性の苦しみに終止符をうつ一助となると考える。




Ⅲ 特別報告者の作業方法と活動



45.  第二次大戦中のアジア地域における軍性奴隷制の問題に関して、本特別報告者は政府や非政府組織から非常に豊富な情報や資料を受け取ったが、その中に含まれていた被害者の女性たちの証言記録については、調査訪問を行う前に入念に検討した。現地調査の主要な目的は、本特別報告者がすでに入手した情報を確認し、関係する当事者すべてにインタビューすること、またこれらの豊富な情報を踏まえて、今日、国、地域、国際の各レベルに見られる女性への暴力、その原因と結果をめぐる状況を改善するための結論と勧告を提出することにあった。こうした勧告は、特に訪問した国で出会った状況に向けたものであるかもしれないし、世界的レベルで女性への暴力を克朊するための、全般的な性質ものとなるかもしれない。

46.  訪問調査の間、本特別報告者はとりわけ元「慰安婦』の要求を明確にし、かつ現在の日本政府がこの問題の解決のためにどのような救済策を提案しているのかを理解しようと努めた。

17.  ピョンヤン(1995年7月15日-18日)。人権センター代表団は金永南外相閣下に迎えられた。訪問中、代表団は本特別報告者が利用するための情報や資料を、最高人民会議議員、外務部高官、非政府組織代表、学者、報道関係者などから提供された。同代表団はさらに、4入の元軍性奴隷から証言を聞いた。

48.  ソウル(1995年7月18日-22日)。この訪問では、本特別報告者は孔魯明(コン・ロミョン)外相閣下に迎えられた。さらに本特別報告者は、外務部、第二政務部、法務部及び保健福祉部の高官、学者、国会やさまざまな非政府組織の代表とも会った。さらに13人の元「慰安婦《と会い、そのうちの9人から暴力の被害を受けた女性としての証言を閔いた。

49.  東京(1995年7月22日-27日)。日本訪間中は、本特別報告者は首相官邸で五十嵐広三内関宮詞長官と会い、さらに総理府、外務省、法務省の高官や国会議員とも会った。加えて、非政府組織や女性団体の代表とも会った。本特別報告者はまた在日の元朝鮮人「慰安婦《の一人から証言を聞くとともに、日本帝国陸軍の元兵士のひとりの証言も叫いた。

50.  本特別報告者が訪問調査中に会った主だった人々のリストは本報告書に付記した。

51.  本報告書はこの問題に関係する当事者、すなわちす朝鮮民主主義人民共和国、大韓民国および日本政府のすべての意見を正確かつ客観的に反映して、この問題の解決に向けた今後の行動を促進することを目的としている。しかしながら、それにも増して重要なのは、本報告書では特別報告者が会うことができた暴力の被害を受けた女性たちの声を取り上げたいということである。彼女たちはフィリピン、インドネシア、中国、台湾(中国の省)、マレーシア.オランダにいる他のすべての元「慰安婦《のために語っているのである。これらの証言は生き残った女性被害者の声であり、彼女たちは現在自らの尊厳の回復と、50年前に自分に対して行われた残虐な行為を認めるよう要求している。




Ⅳ 証言



52.  まず最初に、本特別報告者は勇気を持って語り、証言してくれたすべての女性披害者に心からの感謝を表したい。それが彼女たちの人生でもっとも屈辱的かつ苦痛に満ちた日々を蘇らせることになったのは間違いない。非常に大きな感情的な緊張の下で、自分の体験を語った女性たちと出会い、本特別報告者は深く心を揺さぶられた。

53.  本報告書の分量に制限があるため、特別報告者が3ケ国で会った16人の証言の内のいくつかを要約するほかない。だが、特別報告者はこうした証言をすべて聞くことで当時の状況を想像できるようになったのであり、その重要性をとくに強調しておきたい。以下は軍性奴隷という現象のさまざまな側面を明かにするために選んだ証言であり、これらによって本特別報告者は軍性奴隷制が日本帝国陸軍の指導部により、また指導部の承知の上で、組織的かつ強制的に行われたと信じるに至ったのである。

54.  チョン・オクスン(現在74歳)の証言は、こうした女性たちが日本軍の兵隊たちから性的暴行や日々のレイブに加えて、いかに残酷で厳しい扱いを受けたかを物語る。

「私は192O年《2月28日、朝鮮半島の北部、威鏡南道のブンサン郡ファバル村で生まれました。6月のある日、当時13歳だった私は畑で働く両親のために昼食を用意するため、村の井戸に水くみに行きました。そこで日本人の守備兵の一人に襲われ、連れて行かれたのです。両親は娘に何が起きたのか知らずじまいでした。トラックで警察署に連れていかれ、そこで散人の警官にレイブされました。私が泣き叫ぶと、ソックスを口に突っ込まれ、レイブが続きました。警察署の所長は私が泣き叫ぷので、左目を殴りつけました。それ以来、私は左目が見えません。
 10日ほどして.恵山市の日本陸軍の守備隊に連れて行かれました。そこには私のような朝鮮人の女の子が400人くらいいて、晦日、5000人を超える日本兵のため性奴隷として働かされました。一日に40人も相手にしたのです。抗議するとその度に殴られたりぼろ切れを口に突っ込まれたりしました。私がいいなりになるまで局部にマッチをあてた兵隊もいます。私の局部からは血が流れ出ました。

 私たちと一緒にいた朝鮮人の少女の一人が、なぜ一日に40人も相手にしなければならないのかと闇いたことがあります。彼女を懲らしめるた めに、中隊長ヤマモトは剣で打てと命じました。私たちの目の前で彼女を裸にして手足を縛り、釘の出た板の上にころがし、釘が彼女の血や肉片でおおわれるまでやめませんでした。最後に、彼女の首を切り落としました。もう一人の日本人ヤマモトは私たちに向かって、『お前らを全員殺すのなんかわけはない。犬を殺すより簡単だ』と言いました。『朝鮮人の女たちが泣いているのは食べるものがないからだ。この人間の肉を煮て食べさせてやれ』とも言いました。

 ある朝鮮人の少女はあまりに何度もレイブされたため性病にかかり、その結果、50人以上の日本兵が感染しました。性病が広がるのを止め、少女を『殺菌消毒』するため、彼女の局部に熱した欽の棒を突っ込みました。

 その守備隊にいた少女の半数以上が殺されたと思います。私は二度逃げ出そうとしましたが、二度とも仲間とともに数日後に捕まりました。私たちはさらにひどい拷問を受け、私は頭を何度も殴られ、今もその傷が残っています。私の唇の内側や胸、腹、身体に入れ墨もしました。私は気を失いました。目が覚めると山の斜面にいたのです。たぶん死人として放り出されたのでしょう。私と一緒にいた少女のうち、生き残ったのは私とク・ハエだけです。山中に住んでいた50歳の男性が私たちを見つけて着るものと食べ物をくれました。朝鮮へ帰る手助けもしてくれました。
私は傷つき石女となって、口もろくにきけない身体で掃ったのです。日本人のための性奴隷として5年間働き18歳になっていました。《

55.  ファン・ソギョン(77歳)の証言は、だましてリクルートするやり方の目撃証言である。この方法で多くの若い女性が軍性奴隷に誘い込まれた。

 「私は1918年日月28日、日雇い労働者の次女として生まれました。平壌市カンドン区のタエリ労働者街に住んでいました。

 1936年、私が17歳の時、村長が家にやってきて工場の仕事を見つけてやろうと約束しました。家はとても貧しかったので、給料の良い仕事につけるのは大歓迎でした。日本人のトラックで鉄道の駅まで運ばれると、そこには20人かそこらの朝鮮人の女の子たちがいました。私たちは汽車に乗せられ、ついでトラックに乗り換え、数日かかって中国の牡丹江のそばにある大きな家に着きました。そこが工場だと思ったのですが、工場などどこにもないことが分かりました。女の子たちはそれぞれ小さな部屋をあてがわれました。中には藁布団が敷いてあって、ドアには番号がついていました。

 何が起きているのか分からないまま、二日待たされた後、軍朊を着て帯剣した兵隊が部屋に入ってきました。『言うとおりにするか、どうだ』と言うや私の髪を引っ張り、床に押し倒して脚を広げろと命じました。私をレイブしたのです。その兵隊が行ってしまうと、外に20人か30人もの男たちが待っているのが見えました。その日、全員にレイブされました。それ以来、私は毎夜、15人から20人に暴行されたのです。

 私たちは定期的に検診を受けさせられました。病気に罹っていると分かると、穀されてどこかへ埋められました。ある日、新しく来た少女が私の隣の部屋に入れられました。彼女は男たちに抵抗しようとして、一人の腕にかみつきました。その後、彼女は中庭に連れ出され、私たち全員が見ている前で剣で首をはねられ、身体を切り刻まれました。《

56.  大韓民国永登浦区のドンチョン洞に住むファン・クムジュ(現在73歳)の証言は、軍が運営していた慰安所の規則を示している。

 「日本人の村の指導者の妻から未婚の朝鮮人の嬢は全員、日本の軍事工場で働きに行くようにと命じられた時、17歳だった私は工場労働者として徴用されたのだと思いました。そこで3年間働いた後、一人の日本兵に命じられてテントについて行きました。そこで裸になれと命令されました。とても恐くて抵抗しました。まだ処なだったのです。それでも彼は銃剣でスカートをはぎとり、下着を切り裂きました。私は気を失いました。目が覚めてみると、身体は毛布にくるまれていましがが、そこら中血だらけでした。

 その時以来、最初の一年間は、他の朝鮮人の少女たちと同様に、高級将校の相手をさせられましたが、時が経つにつれ、私たちが次第に『中古品』になってくると、相手は下級将校になりました。病気に罹った女性はたいてい消されました。妊娠を遊けるため、あるいは妊娠しても必ず流産するよう、『606号注射』もうたれました。

 衣類の配給は年に二度だけ、食料も足りず、餅と水しかありませんでした。「サービス《の支払いを受けたことは一度もありません。『慰安婦』として5年働きましたが、そのために私は一生苦しめられたのです。内臓は何度も冒されてほとんど手術で取り除かれ、苦痛と恥辱に満ちた体験のせいで性交渉も持てません。牛乳やフルーツジュースも吐き気なしには飲めません。自分がさせられた汚らしいことをどっと思い出してしまうからです。《

57.  同じく生存者の一入であるファン・ソギュンは、性奴隷として日本兵のために7年間働かされた後、1943年に「慰安所《から逃げ出すことができた。その後、39歳の時に結婚することができたが、家族には自分の過去を決して語らなかった。心身ともに受けた傷と、婦人科の間題があるため、結局子どもは産めなかった。

58.  やはり生き残った一人のファン・クムジュイが本特別報告者に語ったところでは、中国の吉林省の慰安所に着いた最初の日に、日本兵から五つの命令に従わなければ死ぬぞと言われた。天皇の命令、日本政府の命令、彼女が属している陸軍中隊の命令、中隊の中の分隊の命令、そして彼女が慟くテントの保有者であるその兵隊の命令である。韓国のキム・ポクスンも生き残ったひとりだが、性奴隷だった時の生活は直接軍に規制されていたと証言している。毎日午後3時から7時まで下士官の相手をして、9時以降は将校の相手をさせられたのである。兵隊たちを性病から守るため、女性には全員コンド一ムが支給されたが、大半の兵隊は使おうとしなかった。

59.  これらの陳述は、性奴隷制度が軍司令部および政府の命令で日本帝国陸軍によって設立され、厳しく統制されていたと特別報告者が信じるにいたった文書情報を裏付けるものである。

60. 特別報告者はさらに、女性たちが触れている傷跡や痕跡を観察することができた。ピョンヤンで元「慰安婦《の看護にあたっているテョウ・フンオク医師の助言を求めたところ、同医師はこの女性たちが何年間も毎日何回もレイブされ続けた結果、人生の大半を心身ともに衰弱した状態に置かれているのだと確認した。チョウ医師はさらに、女性たちの身体に残る目に見える傷跡に加えて、精神的苦痛が一貫して彼女たちを苦しめており、その方が重大であると強調した。女性たちの多くは上眠、悪夢、高血圧、神経過敏に悩まされていると、同医師は証言する。性殖器や泌尿器が性病に冒されたため、上妊手術を余儀なくされた女性も少なくない。

61.  特別報告者は、証言を聴くことに加えて、関係者個人に受け入れられる方法で問題を解決する遵を探ろうとし、とりわけ被害者の女性たちがどのような補償措置を求めているか、また日本政府が提案する「女性のためのアジア平和友好基金《による解決に女性たちがどのように反応しているかを尋ねた。これに関連して、特別幄告者は、国際社会と特に日本政府が自分たちの声に耳を傾けてほしいと考えている元「慰安婦《の具体的要求を、詳細に反映したいと思う。特別報告者の質問に応えて、元「慰安婦《の大半は日本政府に対して以下の要求を伝えた。

(a)生き残った女性の一人ひとりに、彼女たちが耐えなければならなかった苦しみに対して謝罪すること。朝鮮民主主義人民共和国の被害女性たちはまた、この国の国民に対しても謝罪すべきであると考えている一方、大韓民国の女性たちは、生き残った被害者全員に個別に謝罪の手紙が手渡されるべきだという意見が大半を占めた。さらに,ほとんどの被害者は、村山首相が在任中に行った測罪は、とくに日本の国会がその発言を承認していないため、十分に誠意あるものとは考えていない。
(b)政府と軍司令部か認知した上で、組織的かつ強制的な方法を用いて約20万人の朝鮮人女性を軍性奴隷として徴集しかつ日本帝国陸軍が利用するための慰安所を設立したことを認めること。
(c)性奴隷を目的とした女性の組織的徴集は人道に対する犯罪、国際人道法の重大な侵害、平和に対する犯罪ならびに奴隷制、人身売買と強制売春という犯罪であると認めること。
(d)こうした犯罪に対する道徳的、法的責任を受け入れること。
(e)生き残った被害者に政府の財源から補償金を支払うこと。そのために、個別の補償要求を日本の地方徴判所における民事裁判を通して解決できるよう、日本政府が特別の立法措置を取ることが示唆された。

62.  補償の支払いとの関連で、女性の多くは補償はあくまでも象徴的な意味あいのものであって、額が童娶なのではないと強調した。特別報告者に対して、特定の補償額は言及されなかった。

63.  さらに、日本政府がとくに元「慰安婦《へ補償するために民間からの寄金によって設立した「女性のためのアジア平和友好基金《を撤回するよう求めた女性が少なくなかった。当事者である女性たちの大半は、この基金を日本政府が国が行った行為に対する法的責任を回避する方便であるとみなしている。

64.  加えて、元「慰安婦《たちは日本政府に以下の措置を取るよう求めている。
 (a)第二次世界大戦中の軍性奴隷制度問題の歴史的事実について徹底した調査を行うこと。そこには日本の国内とくに政府の公文書庫に存在するこの問題に関する公的文書と資料の全面的公開も含まれる。
 (b)日本の歴史教科書と教育カリキュラムを改訂して、調査から明らかになった歴史的事実を反映させること。
 (c)軍性奴隷の徴集と軍性奴隷制の制度化に関わったすべての加害者を日本の国内法の下で特定し訴追すること。

65.  生存している被害者のすべてが本特別報告者と国連システムに対し、国際的圧力を通じてこの問題の適切な解決をもたらすため、国際的に積極的に働くよう求めたことを、本特別報告者として指摘しておきたい。折に触れて、国際司法裁判所ないし国際仲裁裁判所に訴えるという逗が言及された。




Ⅴ 北朝鮮民主主纏人民共和国の立場



66.  人権センターの調査団が本特別報告者に代わって朝鮮民主主義人民共和(以下、北朝鮮)を訪問した目的は、日本帝国陸軍が朝鮮人女性を性奴隷として徴集したことについての同国政府の立場を十分に理解し、その見解と要求とを日本政府に伝えこの問題の解決に向けた対話を促進することにあった。

67.  北朝鮮政府は日本政府に対し、日本が犯した犯罪について国際法の下で全面的に責任を受け入れ、その法的責任に基づいて、「その恥ずべき過去をこれ以上隠さず清算するために《すべての行為に対して謝罪し、生存している個々の女性被害者に補償を支払い、国内法の下で「慰安婦《制度の設置に関わったすべての者を特定して訴追することを求めている。

68.  日本政府が認めるべき責任の法的根拠は何かという質問に対し、ピョンヤンにある社会科学学会法学研究所所長チョン・ナムヨン博士は、国際法の下での日本の責任に関する北朝鮮政府の法的解釈を説明した。

69.  まず第一に、20万人の朝鮮人女性を軍性奴隷として強制的に徴集したこと。彼女たちに冷酷な性的暴行を加え、その後大半の女性を殺したことは人類に対する犯罪とみなされるべきである。さらに、日本による朝鮮半島の併合は合法的手段で行われたとは考えられず(12)、また朝鮮半島における日本の駐留は軍事的占領の状態とみなされるため、朝鮮人女性を「慰安婦《として強制的に徴集したことは国際人道法の下での犯罪みなされるべきである。なぜなら、これらの犯罪は占領地に住む一般市民に対して行われたものだからである。第二に、「慰安婦《制度の設置、とくに強制的徴集と売春の強要は、1921年の女性と子どもの売買禁止条約に違反するものである。日本は1925年にこの条約を批准している。

70.  第三の主張は、「慰安婦《のような軍性奴隷制は、1926年の奴隷条約に明らかに違反するというものであった。この条約は当時の慣習国際法の宣言とみなされていた。最後の点として、軍性奴隷制の行為はまた、1948年の集団殺害罪の防止及び処罰に関する条約(ジェノサイド条約)で言われているところのジェノサイド(集団虐殺)と見なすべきだとの見解も、特別報告者に示された。この条約も1948年以前から懐習国際法の規範として広く受け入れられていたとされる。チョン・ナムヨン博士の見解によれば、日本が行ったこうした行為は、特定の国民、民族、人種、宗教集団を破壊する意図をもってなされたのであり、その集団のメンバーの身体ないし精神を傷つけ、肉体的破壊をもたらすような生活条件を集団に故意に押しつけ、集団内での出生を阻止する意図をもった措置を講じたという点で、ジェノサイド条約第2条でいうジェ・ノサイド(集団虐殺)にあたるのである。

71.  北朝鮮政府の代表は、日本と北朝鮮の間には日本と韓国に見られる外交関係が樹立されていないことを指摘した。従って、両国間の間には「慰安婦《問題だけでなく、労働者の強制連行といったその他の重要な問題も未解決のまま残されているのであって、日本政府が主張するように、サンフランシスコ講和条約その他の戦争終結と共に結ぱれた国際協定によって解決されたとする見解は受け入れられない。

72.  北朝鮮政府はまた、日本政府の公文書庫に今も保存されているすべての公文書や資料を開示するよう求めている。これらの資料に基づき、日本は「慰安婦《制度確立という歴史的事実を徹底的に調査し、それに沿って日本の歴史教科書とカリキュラムを改訂すべきである。

73.  補償問題に関しては、特別報告者には具体的な金額や期待されている金額について詳しいことは何も告げられなかった。しかしながら、外務部の高言は、生存しているわずかな被害者女性への個別の補償に加えて、日本の侵略の結果殺されたすべての人に対する補償の支払いが北朝鮮政府としての要求であることを確認している。しかし、日本政府が生存している個々の被害者に加えて、北朝鮮政府に対しても謝罪することが、補償の支払いよりも象徴的な意味で重用であると指摘した高官もいた。

74.  最後に、北朝鮮政府もまた調査団が訪間中に会った学者、ジャーナリスト、披害者たちはみな、女性のためのアジア平和友好基金に強硬に反対し、拒否するという意見を述べた。この基金は特に、「国家補償を逃れるための策略ないしベテン《と解釈されているのである。日本政府はこの基金を設置することで、犯した行為の法的責任を逃れようとしているのだと、繰り返し表明された。この基金を設置して、日本政府が率先して生存する被害者に「償い金《を支払うため国民から資金集めをするというのは、「被害国《に対する侮辱であるとみなされ、同基金の即時撤回が求められている。

75.  北朝鮮で持たれたすぺての会合で、本特別報告者と国連が関係各国政府の仲裁者として働き、日本政府に対しその責任を認め、国際司法裁判所を通じた問題の解決を受け入れるよう勧告して欲しいという強い期待が表明された。

76.  結論として、本特別報告者が出し得た結論は、北朝鮮の社会のあらゆる部門の間で軍性奴隷蛎問題の解決の仕方についてほぼ一致した見解があり、そのような観点で、日本政府に対する要求が述べられたというものである。




Ⅵ 大韓民国の立場



77.  本特別報告者が大韓民国(以下韓国)を訪問した目的は、生存している女性被害者の証言を聞き、元「慰安婦《の多くを代弁する非常に活発な非政府組織のネットワークがある中で、「慰安婦《問題を解決するために可能な方法について話し合い、この問題についての韓国政府の日本政府に対する立場を理解することにあった。

78.  日本との関係で韓国政府は北朝鮮と異なる立場に立っているが、それは戦時の日本による占領から生じる請求権が1965年の韓国と日本の二国間条約によって処理されたからである。だが、この1965年の条約が財産請求権のみを扱い、個人の搊害については規定していないことに、特別報告者は注目した。1965年条約が「慰安婦《の被害者への補償も十分に含んでいたとする意見かどうか、特別報告者は質問した。これに対し孔魯明外務大臣は、1965年の韓日条約は二国間の国交を「正常化《するもので、これに基づき戦時中に被った財産の搊害は日本政府が補償を支払ったと強調した。その時点では、軍性奴隷の問題は取り上げられていなかった。1993年3月、この問題が初めて公に取り上げられた後、韓国の金泳三大統領は「慰安婦《問題に関して日本政府にいかなる物質的補償も要求しないと、公に保証した。

79.  日本の法的責務に関する政府の立場としては、法務省と検察庁の高官は本特別報告者に対して、50年前に犯した犯罪について日本政府に補償すべき法的責任があるかどうか、また戦争終結時に締結された二国間ないし国際条約が「慰安婦《問題も処理したのかどうかについて結論を出すのは非常に難しいと語った。だが、補償を得る手段として、個人が日本の民事故判所に提訴した民事訴訟については、反対意見は全く聞かれなかった。

80.  これとの関連で、特別報告者の見るところ、北朝鮮政府の立場とは反対に、韓国政府による財政的補償の要求はこれまでなされて来なかった。さらに、政府は「慰安婦《被害者への補償は要求してこなかったとは言え、生存している被害の権利を守る非政府組織や女性団体の活動を韓国政府は支援していることにも、特別報告者は注目した。加えて、政府が厚生省を通じて1993年に「生活安定支援法《を制定して、元「慰安婦《たちに無料の医療や生活費を支給するなど、彼女たちを守っていることは、本特別報告者の満足するところである。

81.  また韓国政府が「慰安婦《制度に関して現存する資料や事実を開示するよう、公式に要求したことも、本特別報告者に伝えられた。

82.  これに加えて、「女性被害者の吊誉を回復するために《例えば生存する女性被害者の全員に日本の首相が個人的書簡を送るといった方法で、日本による公式の謝野も求められているとのことである。

83.  女性のためのアジア平和友好基金の設置に関する韓国政府の立場については、外務大臣が本特別報告者に対し、この基金は韓国と被害者の要望に応えようとする日本政府の誠実な努力だと考えると語った。しかしながら、この分野での非政府組織の活動は支持しており、その要求が満たされることも期待しているとも語った。

84.  韓国を訪れている間に、特別報告者は、政府のむしろ慎重な立場とは反対に、その他の部門すなわち政治家や学者、非政府組織の代表、女性被書者たち自身がきわめて強硬な要求を突きつけていることに注目した。

85.  国会の女性に関する特別委員会の委員長その他の議員を含めて、国会議員が特別報告者に伝えたところでは、国会の外交委員会は政府が日本政府に対し、軍性奴隷制に関連する犯罪行為の国家責任を認め、公式に謝罪し、それ相当の補償を支払うよう申し入れるよう勧告した。加えて、歴史教科書の改訂とすべての女性被害者を記念する追悼の碑の建立の要望も出された。

86.  この他に、特別報告者は「慰安婦《問題にかかわる非政府組織や女性団体の代表と幅広く会う機会を得た。特に、韓国挺身隊問題対策協議会、韓国太平洋戦争犠牲者遺族会および大韓弁護士協会は本特別報告者に貴重な情報を提供した。

87.  これらの市民組織の立場は、生存する被害者白身の要求を密接に反映しており、以下の要求が含まれる。日本政府による公式の謝罪、戦争犯罪を犯したことに対する国家責任を認め「すべての元慰安婦女性の吊誉と尊厳の回復《すること、この問題に関連する文書や資料をすべて開示すること、日本政府による個々の生存者への補償支払い、および日本政府が特別立法を行い、日本の地方裁判所に提訴された民事訴訟を通じて個人の補償請求を解決できるようにすること。

88.  特別報告者はさらに、非政府組織の代表に女性のためのアジア平和友好基金についての意見を尋ねた。このグループも同基金を、民間から基金を募ることで日本政府が国家責任を免れるための方法と理解しており、無条件の撤回を求めている。補償のために個人や市民社会のさまざまな領域から募金を集めるという点が、被害者自身にも彼らを擁護する人びとにも最大の困難を引き起こしていると、特別報告者は伝えられた。

89.  さらに、国際的役割を累たす者として国連がこの問題に適切な解決をもたらすよう、繰り返し要請され、その一例として国際司法裁判所ないし常設仲裁裁判所を通じた解決があげられた。

90.  もう一点興味を引くこととして、1995年3月、韓国労働総同盟が国際労働機関(ILO)の通報メカニズムを進じて、「慰安婦《が性奴隷としての「労働《の報酬を受けていないとして、強制労働の告発に基づき「慰安婦《問題の解決を求めた事実がある。




Ⅶ 日本政府の立場 ---法的責任---



91.  一般的に、国際法の下では被害者の複利と加害者の犯罪責任が認められることはめったにない。だが、こうした権利と責任は、現代の国際法とりわけ国際人道法の分野では上可欠の部分である。

92.  本特別報告者の日本滞在中、日本政府は元「慰安婦《および彼女たちに代わって国際社会が出している要求に対する論議が書かれた文書を、特別報告者に提出した。日本政府は被害者に対して何ら法的に強制されるべきものはなく、単に動議的貴任しかないと考えている。しかしながら、日本政府は第二次世界大戦中、軍性奴隷制の下に置かれた女性たちに対して法的にも道義的にも責任がある、というのが本特別報告者の考えである。

93.  日本政府は1994年8月、「慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した《ことを認めた。(13)第二次大戦中に「慰安婦《を徴集し連行したことを認めたのである。また、軍関係者が、女性たちの意志に反して行われた徴集に直接関与したことも認めた。(14)さらに「本件は、多数の女性の吊誉と尊厳を深く傷つけた問題である《とも言明した。(15}

94.  韓国と日本への訪間中に非政府組織や学者から提供された文書から、第二次大戦中の慰安所の設置、その利用と運営ならびに管理と規制について、日本帝国軍が責任を持っていたことは明らかである。慰安所に関して、日本帝国軍の将校によって命令が下されていたことを示す詳しい文書が提供された。命令の原文のコピーも提供されたが、そこには慰安婦の徴集と移送を求める前線将校の特別の要請が書かれている。(16)日本政府はさらに特別報告者に、「慰安婦《に関して政府が管理する資料はすべて開示されたと伝えた。

95.  慰安所にいた女性たちのほとんどは意志に反して連行されたこと、日本帝国軍は大規模な慰安所ネットワークを設置し、規制しかつ管理していたこと、慰安所に関して責任は日本政府にあることについて、本特別報告者は絶対的確信を得た。加えて、日本政府は国際法の下でこれが示唆する責任を果たす用意をすべきである。

96.  日本政府の主張によれば、1949年8月12日に締結されたジュネーブ条約やその他の国際法文書は第二次大戦中は存在していなかったのであり、従って、同政府には国際人道法侵害の責任はないという。この点で、特別報告者は旧ユーゴスラビア国際刑事法廷設置に関する事務総長報告書(S/25704)の第34節と第35節に以下のように書かれていることに、日本政府の注意を喚起したい。

「事務総長の見解では、『法なくして犯罪なし』の原則を適用するためには、国際法廷において疑う余地なく慣習国際法の一部である国際人道法の規則を適用すべきであって、その結果、特定の条約に対してすべての国ではなく一部の国だけが遵守するという問題は生じなくなる・・・

 疑いもなく国際慣習法の一部となった通常の国際人道法のその部分は、武力紛争に適用町能な法であり、戦争被害者の保護のためのジュネーブ条約(1949年8月12日)、陸戦の法規慣例に関するハーグ第Ⅳ条約及びその付属規則(1997年10月18日)、集団殺害罪の防止及び処罰に関する条約(ジェノサイド条約、1948年12月9日)ならびに国際軍事法廷条例(1945年8月8日)に具体化されている。《

97.  事務総長にならって、本特別報告者は国際人遵法のある側面は疑いもなく慣習国際法の一部であり、国は特定の条約の調印国でなくても、これらの国際人道法に違反した責任を問われるものと考える。

98.  ジュネーブ第四条約第27条は、戦時下のレイブは国際戦争犯罪だとする原則を繰り返している。同条は「女性は、その吊誉に対する侵害、特にレイプ、強制売春、その他あらゆる種類のわいせつ行為から特別の保曝を受けるべきであるjとしている。戦場における軍隊中の負傷軍人の状態改善に関するジュネーブ条約は、1929年に施行され、日本は批准しなかったが、第3条で明確にこう述べている。「捕虜は、その身体及び吊誉を尊重される権利を有する。女性は、その性にふさわしいあらゆる配慮をもって取り扱われなければならない・・・《

99.  国際軍事法廷条例第6条(C)及び東京法廷条例第5条は、戦争前ないし戦時中に民間人に対して行われた殺人、せん滅、奴隷化、追放その他の非人道的斤為を人類に対する犯罪と定義している。

100.  これとの関係で、国際法委員会が第46会期の活動報告書で以下のように述べていることは重要である。「委員会は、慣習国際法上の戦争犯罪という範疇が存在するという広範な見解に同意する。その範囲は、1949年ジュネーブ諸条約の重大な違反の範囲と同一ではないが、重複する《(17)

101.  1949年ジュネーブ諸条約が時間的適用制限の原則のために慣習国際法の証拠とならないとみなされ、また日本は調印していない以上、1929年ジュネーブ条約は適用できないとみなされたとしても、1907年陸戦の法規慣例に関するハーグ条約には日本は加盟していた。すべての交戦国が条約の締結国でない場合は(第2条)同規則は適用されないが、その条項は当時機能していた慣習国際法の明白な実例である。ハーグ規則第46条は、国には家族の吊誉及び権利を保護する責務があるとしている。家族の吊誉には、家族の中の女性がレイブのような屈辱的行為を受けない権利も含まれると解釈されている。

102.  1904年の国際売春婦売買取締り協定、1910年の売春婦売買禁止条約、1971年の女性と子どもの売買禁止条約を日本は批准した。しかし、日本は1921年条約の特権を行使して朝鮮をこの条約の適用範囲に加えないと宣言した。だが、このことは朝鮮人以外の「慰安婦《はすべて、この条約の下で日本がその責務に違反したと主張する権利があることを意味する。国際法律家委員会(18)は、多くの場合に見られるように、朝鮮人女性がひとたび朝鮮半島から日本に連行されたら、この条約は彼女たちにも適用できると主張している。また、この条約は当時の慣習国際法の証拠だとする主張もある。

103.  日本政府は特別報告者に手渡した文書の中で、たとえ国際法上の責任が存在するとしても、これらの責任は賠償および請求権の処理を扱ったサンフランシスコ講和条約(19)及びその他の二国間平和条約や国際協定ですでに果たされたと述べている。これらの協定によって、日本政府は誠実にその責務を果たし、すべての賠償と請求権問題は上記の協定の締約国と日本との間ですでに処理されたというのが日本政府の主張である。

104.  さらに日本政府は、特別報告者に手渡した書面で、財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協定に関する日本国と大韓民国との間の協定(1965年)(20)において「両締約国及びその国民の財産、権利及び利益に関する問題は・・・完全かつ最終的に解決されたこと《を確認していると主張する。第11条(3)は「一方の締約国及びその国民の財産、権利及び利益であって・・・他方の締約国の管轄の下にあるものに対する措置・・に関してはいかなる主張もできないものとする《としている。実際、総額5億ドルが支払われたと、日本政府は指摘する。

105.  基本的に、すべての請求権は二国間諸条約で解決されており、日本は個々の被害者に補償を支払うよう法的に拘束されてはいない、というのが日本政府の断固たる立場である。

106.  日本政府はさらに、サンフランシスコ調和条約(1951年)の第14条(a)に以下のように書●かれていると指禍する。日本国は、戦争中に生じさせた搊害及び苦痛に対して、連合国に賠償を支払うべきことが承認される。しかし、また、存立可能な経済を維持すべきものとすれば、日本国の資源は、日本国がすぺての前記の搊害及び苦痛に対して完全な賠償を行い且つ同時に他の債務を履行するためには現在十分でないことが承認される・・・《

107.  国際法律家委員会は、1994年に発表した「慰安婦《に関する調査報告(21}の中で、日本政府が言及する諸条約は、非人道的処遇に対して個人が行う請求権を含む意図はまったくなかったと述べている。「請求権《という言葉は、上法行為による請求権を含まず、また合意議事録または付属議定書でも定義されていない、と国際法律家委員会は論じる。また、戦争犯罪および人類に対する犯罪から生じる個人の権利の侵害に関して、なんら交渉はなされなかったとも主張する。国際法律家委員会はまた、大韓民国の場合、日本との1965年協定は政府に支払われる賠償に関連するもので、被った搊害に基づく個人の請求権は含んでいないと断言している。

108.  本特別報告者は、サンフランシスコ講和条約も二国間条約も、一般的な人権侵害にもと特に軍性奴隷制にも関わるものではないという意見である。当事国の「意図』は、「慰安婦《による具体的な請求を対象としていなかったし、これらの条約は日本による戦争行為の間の女性の人権侵害に関するものでもなかった。従って、これらの諸条約には元軍性奴隷による請求は含まれておらず、日本政府には結果として起きた国際人道法違反の法的責任が残されているというのが本特別報告者の結諭である。

109.  日本政府が特別報告者に提出した文書が述べるところによれば、国際法の通常の理論によれば、条約で認められない限り、国際法は原則として諸国間の関係を律するのであって、個人は国際法上の権利義務の主体になり得ないという。

110.  本特別報告者の見解では、国際人権文書は国際法が認める個人の権利の実例である。例えば、国連憲章第1粂は「人権及び基本的自由を尊重するように助長奨励すること《への協力を国連の目的のひとつとしている。世界人権宣言は国際人権規約と共に国家に対する関係で個人の権利を定義しており、従って、個人はしばしば国際法の保護を受ける権利がある主体となることをさらに裏付けている。

111.  日本政府はまた、侵犯者を訴追し処罰すべき国際法上の義務について論じる国際人権組織に対し懸念を表明した。これは国家の一般的義務ではないとする理解がある。処罰しないという問題は本質的な問題として認められていない。しかし、第二次大戦後に開かれたニュールンペルグ法廷も東京法廷も、戦争犯罪を犯した者に対して一般的な免責を与えなかった。戦争犯罪を理由に個人を訴追することは、国際法の下でいまも存在している可能性である。

112.  軍隊のメンパーは適法の命令にのみ従う義務があることも留意する必要がある。彼らは、命令に従った場合でも、戦争に関する規則および国際人道法に違反する行為を犯した責任は免れない。

113.  先に述べたように、人類に対する犯罪は戦争前または戦争中に行われた殺人、せん滅、奴隷化、追放及びその他の非人道的行為と定義されている。「慰安婦《の場合に見られる女性と少女の誘拐や組織的レイブは、明らかに民問人に対する非人道的行為であって、人類に対する犯罪を構成する。慰安所の設置と運営に責任ある者たちの訴追に着手するため、相当の注意・配慮を行なうのは日本政府にかかっている。時間が経過し、情報が上足しているため、訴追は困難かもしれないが、にも関わらず、可能な限り訴追を試みるのが日本政府の義務である。

114.  日本政府の意見に従えば、個人は国際法の下で何らの権利もなく、個人には国際法上の補償への権利はなく、補償のようないかなる形態の賠償も国家間にしか存在しない。

115.  世界人権宣言第8条は「何人も、憲法及び法によって付与された基本的権利を侵害する行為につき権限ある国内法廷による効果的な救済への権利があると明記している。国際人権規約(市民的及び政治的権利に関する規約)第2粂第3項は、個人の効果的救済への権利を国際規範とするために.効果的救済を求める者何人も、権限ある司法的、行政的または立法的当局によって、もしくは締約国の法的制度によって定められたその他の権限ある当局によって、決定を受ける複利がなければならないとしている。

116.  すべての人権文書もまた、国際人権法違反に対する効果的救済の問題を扱っている。権利が侵害された個人及び集団は、補償への権利を含めて効果的救済への権利かあると認められているのである。

117.  国際法の下で適切な補償を得る権利も広く認められた原則である。本特別報告者が先の予備報告で注目したように、ホルジョウエ場事件は具体的に明確な搊害顧が確定できなくても、協定違反であれば責務が生じるという法原則を確立した。(22)

118.  人権委員会もまた、個人の補憤への権利と言おいう問題を明確にすることに関心を示している。同委員会の決議1995/34は、差別防止及び少数者保護小委員会に対し、基本的自由と重大な人権侵害の被害者の原状回復、補償およびリハビリテーションヘの権利に関して同小委員会の特別報告者がまとめた最終報告(E/CN. 4/Sub,2/1993・8、chap、IX)の基本的原則とガイドラインを考慮するよう促した。

119.  この報告書の第14項で、特別報告者は「重大な人権侵害の結果として、しばしば個人と集団の双方が被害者となることは否定できない《と述べている。さらに、現行国際法の枠組みの中で、効果的救済と補償への個人の権利について詳しく論じている。世界人権宣言、国際人権規約、人種差別撤廃条約、アメリカ人権条約、人権と基本的自由の保護のための欧州条約、拷問禁止条約、強制的失踪からのあらゆる人々の保護に関する宣言、独立国内の原住民及び部族民に関するIL0169号条約ならびに子どもの権利条約がすべて、同報告書に引用されている。これらの国際文書は、国際法上、個人が効果的救済と補償への権利をもつことを認めかつ受け入れているのである。

120.  重大な人権侵害の被害者の賠償に関する基本原則とガイドラインを提案する中で、同特別報告者は次のように述べる。「人権及び基本的自由を尊重し、また尊重を保証する国際法上の義務に違反した場合は、すべての国家が被害回復を行う義務を負う。人権の尊重を保証する義務には、違反行為を防止する義務、違反行為を調査する義務、違反行為者に対し適切な手段をとる義務、被害者に救済を提供する義務を含む《(23)

121.  基本的原則とガイドラインの提案ではまた、賠償は被害者の必要と要望に応じ、侵害の重大性に比例したものであるべきで、かつ原状回復、補償、リハピリテーション、満足、再発はないという保証が含まれなければならないとされている。これらの賠償の形態は以下のように定義される。
(a)原状回復は、人権侵害の前に被害者のために存在していた状況を回復することであり、とりわけ、自由、市民権または居住権、雇用および財産の回護を必箭とする。
(b)補償は、人権侵害の結果生じた経済的に評価可能な搊失に適用されるもので、肉体的ないし精神的搊害、苦痛や苦しみや心痛、教育などの機会喪失、収入および収入能力の喪失、リハビリテーションのための適正な医療その他の費用、財産や事業に対する搊害、社会的評判や尊厳に対する被害、及び救済を得るための法的または専門的援助に伴う適正な費用と報酬を含む。
(c)リハビリテーションは、法的、医学的、心理学的及びその他のケア、被害者の尊厳と社会的評判を回復するための措置を提供することを意昧する。
(d)満足と再発はないという保証には、継続的侵害の停止、事実の検証と真相の全面的公開、事実を公に承認し責任を受け入れることを含む謝罪、侵害に責任がある人間を裁判にかけること、被害者を追悼し敬意を表すこと、教育のカリキュラムと教材に人権侵害に関する正確な記録を盛り込むことが含まれる。(24)

122.  賠償は直接の被害者、及び適切である場合には肉親、扶養家族または直接の被害者と特別の関係にあるその他の個人によって請求できるということを、本特別報告者はつけ加えておく。また、個人に賠償を提供することに加えて、国は被害者の集団が集団的請求を行い、集団的な賠償を得られるようにしなければならない。

123.  日本政府の基本的主張は、法的責任を主張しようとする試みは既往の行為に遡って有効な適用を意味するとしているが、これに対して国際人道法は慣習国際法の一部であるという反論がある。この点で、国際人権規約(自由権規約)第15条(2)に述べられていることを指摘しておきたい。「この条のいかなる規定も、国際社会の認める法の一般原則により実行の時に犯罪とされていた作為又は上作為を理由として裁判しかつ処罰することを妨げるものではない《

124、時効があるはずであるとか、第二次大戦後すでに50年近く経っているとする主張も適切ではない。被害者の権利尊誰の立場から、犯罪に関する法、政策及び慣行は、時効を認めないのである。これとの関連で、原状回復への権利に関する特別報告者は、報告書でこう述べている。「人権侵害のための実効的救済が存在しない間の期間に関しては、時効は適用されてはならない。重大な人権侵害の請求権に関しては、時効に従うものとされてはならない(25)




Ⅷ 日本政府の立場 ---道義的責任---



125.  第二次大戦中の「慰安婦《の存在について、日本政府は法的責任を受け入れていないが、多くの発言で道義的責任は認めているように思われる。本特別報告者はこれを歓迎すべき端緒であると考える。日本政府が本特別報告者に手渡した文書には、いわゆる「慰安婦《問題について道義的責任を受け入れる発言や呼びかけ文が含まれている。河野洋平官房長官が1993年8月4日に行った談話は、慰安所の存在を認め、慰安所の設置並びに運営に旧日本軍が直接、間接に関与したこと、及び徴集は民同業者か行ったとしても、軍の要請を受けて行ったものであることを受け入れている。この談話はさらに、多くの場合、「慰安婦《はその意思に反して集められたこと、慰安所では「強制的な雰囲気《の中で暮らさなければならなかったことも認めている。

126.  曰本政府は、「その出身地のいかんを問わず、・・・数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対して心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる《としている。日本政府はこの談話で、「われわれは、歴史研究と歴史教育を通じて、このような問題を永く記録にとどめ、同じ過ちを決してくり返さないという固い決意《を表明した。

127.  日本政府はさらに、韓国の廬泰愚韓国大統領と日本の宮沢首相との協議の結果として、特別調査を委託した、元軍関係者と元「慰安婦《は、曰本政府による詳細な聞き取り調査に出席した。警察庁及び防衛庁を含む重要な政府施設もこの調査の対象となった。

128.  1992年7月5日、曰本政府はその時点までに行われた調査の結果を発表し、その文書は本特別報告者にも手渡された。そこには「各地における慰安所の開設は当時の軍当局の要請によるものである《と書かれている。また、「慰安所の存在が確認できた国又は地域は、曰本、中国、フィリピン、インドネシア、マラヤ(当時)、タイ、ビルマ(当時)、ニューギニア(当時)、香港、マカオ及び仏領インドシナ(当時)である《と言う。日本政府は、曰本軍が直接慰安所を運営していた事実を認めた.「民間業者が経営していた場合においても、旧日本軍がその開設許可を与えたり、慰安所の施設を整備したり、慰安所の利用時間、利用料金や利用に際しての注意事項などを定めた慰安所規定を作成するなど、「旧日本軍は慰安所の設置や管理に直接関与した《

129.  同文書はさらに、「慰安婦たちは戦地においては常時軍の管理下において軍と共に移動させられており、自由もない、痛ましい生活を強いられたjと述べている。この調査の結論は、リクルートは民間業者によって行われる場合が多かったが、その業者は「或いは甘言を弄し、或いは畏怖させる等の形で《「本人たちの意向に反して《集める手段をとったというものである。また、行政当局者や軍関係者が直接募集に当たった場合もあると述べている。最後に、この調査は日本軍が「慰安婦《の移送を承認しかつ便宜をはかり、また日本政府が身分証明書を発行したとしている。

130.  日本政府の当局者は個々に自責の念を表明してきた。1994年8月31日付けの談話で村山富市首相は、「いわゆる従軍慰安婦問題は、女性の吊誉と尊厳を深く傷つけた問題であり、私はこの機会に、改めて、心からの深い反省とお詫びの気持ちを申し上げたいと思いますJと述べた。同じ文脈で、同首相は平和友好交流計画を第二次大戦後50周年に当たり発足させると公表した。この計画で、国民が「過去の歴史を直視Jできるように、研究支援とアジア歴史資料センターを設立したいと述べた。それはまた、日本とアジア地域諸国との対話と相互理解を促進する交流計圖の設立につながるはずである。この計画は特に「慰安婦《問題を目的としているものではないが、首相の「侵略行為に対する、深い反省の気持ち《に基づくものであるとされた。

131.  最後に、五十嵐広三官房長官は1995年6月14日の談話で、村山首相の発言を受ける形で、与党の戦後50年間題ブロジェクトの協議に基づき、過去の「反省《に立って、女性のためのアジア平和友好基金を設置する試みがあると述べた。この首相官邸の責任ある高官は、本特別報告者にこの基金の活動の詳細を説明して、生存する女性被害者への補償の支払いにとどまらない主要な目的として以下をあげた。
(a)元戦時性奴隷の苦しみに日本国民として「償い《を行うため、民間から基金を集めること。
(b)医療、福祉など元「慰安婦《被害者に役立つようなプロジェクトを、政府の資金やその他の資金で支援すること。
(c)基金のプロジェクトの実施を通じて、政府はすべての元「慰安婦《に対する反省と真騒なお詫びの気持ちを表すこと。
(d)過去の「慰安婦《制度に関する歴史資料を集め、「歴史の教訓として役立てる《こと。本特別報告者が知り得たところでは、これらの資料やその他の近代アジア史に関する文書は、提案されているアジア歴史資料センターで公開されることになっている。
(e)アジア地域とくに「慰安婦《被害者が連行された諸国の非政府組織が、人身売買や売春など現代の女性への暴力の形態の撤廃をめざす分野で行うブロジェクトを支援すること。

132.  この基金を民間から集める目的について、本特別報告者は質問した。これに対し、1995年6月14日の五十嵐官房長官談話にあるように、基金設置は、日本政府が日本国民と共に「お詫びと反省の気持ちを・・・分かち合っていただくため、幅広い国民参加の道をともに探求していきたい《と解釈されるべきであると、伝えられた。さらに、この基金は「慰安婦《問題に関係のある諸国と地域との相互理解を促進し、あわせて、日本国民が「過去を直視し、正しくこれを後世に伝える《ようにすることを意図している。政府が基金のために民間から募金することに決めた理由はここにある。政府自身も5億円(約570万ドル)を投入するが、これは基金の運営費並びに上記の女性被害者のための医療、福祉計画に当てられる。

133.  本特別報告者は日本から帰った後、同国政府から追加の情報を受け取ったが、それによると本報告書を執筆している時点で、民間から計100万ドルの募金が集まり、それも大半が個人からのものであるという。また、労働組合、企業及び民間機関が募金に協力すると期待されること、基金は非営利団体としての法人格を持つことになるとも伝えられた。

134.  上記に照らせば、この基金は「慰安婦《の悲運に対する曰本政府の道義的責任の表明として創設されたものであると、本特別報告者は考える。しかしながら、これはこの女性たちの状況に対するいかなる法的責任も否定することを明確に表明するものであり、民間から募金したいとするところにそれが反映されている。本特別報告者は道義的観点からこの基金設置を歓迎するが、しかし、それは国際法上の「慰安婦《の法的請求を免れさせるものではない。

135.  本特別報告者は、日本政府が、国連婦人開発基金による女性への暴力に関する活動計画に貢献する意図があるという情報を受け取り、関心を抱いていることを記しておく。これはもっとも歓迎すべきことであり、女性への暴力の被害者を保護する一般原則に対する日本政府の誓約を示すものである。




Ⅸ 勧告



136.  本特別報告者は、当事国政府との協力の精神に基づいて任務を果たし、女性への暴力その原因と結果という幅広い枠組みの中で、戦時の軍性奴隷制の現象を理解しようとする目的のために、以下のことを勧告したい。特別報告者との討議において、旧日本軍によって行われた軍性奴隷制の少数の生存する女性被害者に正義をもたらす意欲と率直さを示した日本政府に、特別報告者として特に協力を期待するものである。


A.  国家レペルで


137.  日本政府は、以下を行うべきである。

(a)第二次大戦中に日本帝国軍によって設置された慰安所制度が国際法の義務の違反であることを承認し、かつその違反の法的責任を受け入れること
(b)日本軍の性奴隷の妓害者個々人に、人権及び基本的自由の重大侵害の被害者の原状回復、賠償及びリハビリテーションの権利に間する差別防止少数者保護小委員会の特別報告者が示した原則に従って、補償を支払うこと。被害者の多くは高齢であるため、この目的のために特別の行政審査会を短期間内に設置すること。
(c)第二次大戦中の日本帝国軍の慰安所及びその他の関連する活動に関し、日本政府が保存するすぺての文書と資料の完全公開を保証すること。
(d)吊乗り出た女性で、日本軍性奴隷の女性被害者であることが裏付けられる女性の個々人に、書面による公的謝罪を行うこと。
(e)厘史的現実を反映するよう教育のカリキュラムを改訂して、この問題についての意識を高めること。
(f)第二次大戦中に、慰安所のためのリクルートや制度化に関与した者を出来る限り特定し、かつ処罰すること。



B.国際レベルで


138.  国際レベルで活勤している非政府組織(NGO)は、引き続きこうした問題を国連機構の中で提起すべきである。国際司法裁判所又は常設仲裁裁判所に勧告的な意見を求める試みもなされるべきである。

139.  朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国は、「慰安婦《に対する賠償の責任及び支払いに関する法的問閥の解決のために、国際司法経利所の助力を求めることもできる。

140.  本特別報告者は、生存する女性が高齢であること、及び1995年が第二次世界界大戦終結50周年にあたる事実に留意し、日本政府に対し特に上記の勧告を考慮してできる限り早急に行動をとるよう促す。戦後50年を過ぎるがままにするのではなく、今こそ多大の被害を受けた女性たちの尊厳を回復すべき時であると、特別報告者は考える。








 (財)女性のためのアジア平和国民基金  (アジア女性基金)

アジア女性基金は、1995年7月、日本軍が関与して「慰安婦《とされた被害者の癒しがたい苦しみを受け止め、少しでもその苦しみが緩和されるよう力を尽くし行動することが、耐え難い犠牲を強いた日本の責任を表すとの認識から、市民と政府か一体となって発足いたしました。従って、基金の目的の一つは、「慰安婦《制度の被害者への国民的な償い事業です。それは、1)被害者の方々の苦悩を受け止め、心からの償いを示す事業、2)国としての率直なお詫びと反省の表明、3)政府の資金による医療・福祉支援事業、4)「慰安婦《問題を歴史の教訓とするための事業です。被害者の方々は、長い間沈黙を強いられ、高齢となられた今、償いに残された時間は限られています。そのため、アジア女性基金としては、一刻も早く日本の道義的責任を具体的に表したいという気持ちで、この事業に取り組んでいます。
同時に、女性に対する差別や暴力が「慰安婦《問題を生んだ背景にあるとの認識から、アジア女性基金のもう一つの目的は、今日的問題である女性への暴力あるいは人権侵害に対して、積極的に取り組み、二度と「慰安婦《問題を生まない社会を作る事業です。その活勤には:
■ 女性が今日直面している問題についての国際会議の開催
■ 女性の人権問題に様々な角度から取り組んでいる女性の団体への支援活動
■ 女性に対する暴力、あるいは、女性に対する人権侵害についての原因と防止に関する調査・研究
■ 暴力や人権侵害の被害女性に対するカウンセリングおよび自立支援等があります。

基金の事業や活動についてのお問い合わせ、出版物のリスト等をご希望の方は、下記の住所にご通絡下さい。なお、インターネットでも基金の活動はご覧になれます。
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