八月十五日 

   蜂谷道彦 広島逓信病院院長


     八月十五日の日記 永六輔[監修] 1995.6.7



 重大放送のある日だ。一夜考えて、敵が本土へ上陸したものと思った。国民総奮起の重大放送が大本営からあるものと信じた。私は心細くなって山の中へ逃げこむ順路を考えた。山陽線沿線は危ない。広浜線か、芸備線を伝えば中国山脈にはいれる。私は知人の家を考えた。三次、庄原、西城、東城、宇治、芳井---山の中ばかり通って伜の疎開先の宇治と母の疎開先の芳井とを心に描いて逃げる順路を考えた。平素山西作戦から帰った秋山君が、兵隊が山の中にはいったら戦さは敗けだといっていた。四月ごろから敗戦様相をそなえていた、鉄砲を持たぬ兵隊、柄の悪い兵もありだした。老人子供以外は市外への疎開が厳にとめられていた。四十歳以下の者は都市防衛隊員に編入されていた。万一の事があったら我々巾民は弾運びや軍夫に徴用されることになっていた。弾圧につぐ弾圧、憲兵の監視が厳しい。うっかりしたこともいえない。立退き疎開で市内の家が借しげもなくぶちこわされる。緑なことはないと思っていた。とうとう敵の本土上陸か。私はいやになってしまった。ピカで全滅、我々でも焼け跡に頑張っているのに兵営の跡には何もない、師団司令部の跡へ臨時司令部ぐらいは設営してもよいわけだ。一足先に逃げたのか、私は逃足の早かった軍隊を思い起した。空襲警報の出る度に馬匹疎開と称して病院裏を兵隊が逃げていた。焼けてからみれば兵営も、弾薬庫も空っぽだった。軍隊は用意周到だ。四月までに将校家族はほとんどすべて郊外の安全そうなところに疎開していたのだ。心当りがある。そして四月から疎開禁止。私はあの時疎開したかった。どうしてもそれが

許されなかった。もはや、山の中に司令部や兵営ができているに違いない。我々は置き去りか、無防備だ---私は思うことさえ許されないことを心ひそかに思っていた。

 局長室へ集まれといってきた。重大放送だ。ラジオがあるという。私は早速局長室へ行った。大勢の従事員が部屋の中へ詰め込んでいる。局長閣下がラジオのそばに立っておられる。私は入口の柱にもたれて暫らく待った。雑音の多いラジオがなりだした。そのうち、何かいう声が聞えたり聞えなかったりする。タエガタキヲタエ、シノビガタキヲシノビということだけははっきりわかったが、あと先は雑音でさっぱりわからぬうちに放送が終った。ラジオのそばにいた岡本総局長が直立して、ただいまの放送は、天皇陛下の玉音放送である。仰せの通り、戦さに敗けたのだ。残念であろうが何分の指示あるまで、諸君は諸君の職責を守っていてくれ、との主旨の簡単な挨拶があった。

 私は雑音が多くてさっぱりわけのわからぬラジオ放送を国民総蹶起の激励演説と思いこんでぼんやりして聞いていた。それが計らずも、天皇陛下の玉音放送であった。しかも降伏の詔勅だったのだ。私は事の意外に頭がぼうとした。心理装置が一瞬停止した。涙がでなかった。涙腺の機能が停止していたのだ。局長閣下の訓示で玉音放送と知り、粛然として直立上動の姿勢をとった。訓示が終ってからもしばらく直立上動の佇みをつづけていたようだった。脳貧血が起きかけたか一時、眼の前が暗くなった。冷たいものが背中をつたい、歯ががちがちして歯の根が合わなかった。

 私はこっそり病院へ戻った。そして「敗戦だ《と一口いってベッドに腰をおろした。病室は俄然静まりかえった。寂として声なくしばらく沈黙がつづいた。敗戦を知り一同唖然としていたのだ。間もなくすすり泣きがきこえだした。爆撃された時敢然立って我武者羅に活躍した者の面影は全くない。意気消沈全く見る影もない態だ。ひそひそ話がきこえだした。突然誰か発狂したのではないかと思えるほど大きな声で「このまま敗けられるものか《と怒鳴った。それにつづいて矢つぎばやに「今さら敗けるとは卑怯だ《「人をだますにもほどがある《「敗けるより死んだ方がましだ《「何のために今まで辛抱したか《「これでは死んだ者が成仏できるか《いろんな表現で鬱憤が炸裂する。病院は上も下も喧々諤々全く処置なき興奮状態に陥った。日ごろ平和論者であった者も、戦争に厭ききっていた者も、すべて被爆この方俄然豹変して徹底的抗戦論者になっている。そこへ降伏ときたのだからおさまるはずがない。すべてを失い裸一貫。これ以上なくなることはない。破れかぶれだ。私も彼らのいうように徹底的に戦ってしかる後に一死もって君国に殉ずるのが私の本分であると思った。私はさらに思った。疵だらけの見苦しい姿で生きながらえるよりは殉国の華と散る方がましだ。有終の美をなすことを忘れてはならぬと心ひそかに自分で自分にいいきかせた。

 降伏の一語は全市壊滅の大爆撃より遥かに大きなショックであった。考えれば考えるほど情ない。降伏は天皇陛下の御命令である。異議をとなえることはできない。残念至極である。堪えがたさを堪え、忍びがたきを忍びと仰せられたのは、お前らは腹が立とうが辛抱せよとの思召ではないかと思った。そして繰り返し繰り返し、堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍びを黙誦した。いくら黙誦してもよい知恵はでなかった。私の考えは知らぬまに見当はずれの方向へ移った。

 思えば三年前大東亜戦がはじまった時、私は終日戦果の発表に酔って、取るものも手につかず有頂天になっていた。あの時の感激、あの時には今日あるを思わなかった。あの感激の一日、一億一心歓喜の頂点にあった。なぜ、あの時、陛下に玉音放送をお願いしなかったか。あの時は一切合財東条さんの独り舞台であった。あの時の甲高い東条さん得意の放送は未だ耳朶に残っている。「貴様らは陛下を何と思っているか。勝手に戦争をぼっぱじめて、調子のよい時にはのさばりかえって、いざ敗け戦さとなると隠せるだけかくして、どうもこうもならぬようになったら上御一人におすがりする、それで軍人といえるか。腹を切って死ね《と私は腹立ちまぎれに思わず軍を恨み軍を罵倒していた。私ばかりではない。「東条大将の馬鹿野郎、貴様らは皆腹を切って死ね《と怒鳴りちらしている者もあった。

 私は興奮のあまり立っても坐ってもおれなくなった。私はベッドから飛び起きて病院をぬけ出した。そして、どこをどうさまようたかわからぬが、逓信局の裏口へ立っていた。「先生、どうなさった《と声をかけられ我に戻った。私はよほど興奮していたに違いない。私は思いなおして患者を見舞うこととした。患者も興奮していた。「大変なことになったなあ、天皇陛下の御命令だから……《を連発して歩いた。私は患者の容態を診たり聞いたりする心の余裕は持たなかった。看護婦さんが無心に患者を治療している。その姿をみて私は教えられるところがあったのか、つとめて心を落ちつけるような気持になった。

 病院へ戻ってみると玄関脇の老婆の姿がない。事務室にはいって世良君と北尾君にきくと二人は顔を見合わせ少し考え相前後して「彼女は昨夜亡くなりました《という。「お婆あさんは敗戦を知らずに死んだ、よいことをした《と私は思わず呟やいて事務室を出た。廊下に出ると南の兵営から逃げこんでいる傷病兵の一人が「先生、我々はどうしたらよいでしょう《と質問した。「部隊本部がわからぬのだから、よくなるまでここにおればよい。私が全責任を負うてあげるから安心して《というと、「敵はいつ上陸するでしょうか《と尋ね返した。「敵が上陸しても大丈夫だ。病人じやないか。私がうまい具合にいってあげるよ。都合では逃がしてあげる。とにかく、あわてぬように《といい渡し、他の兵隊にもそう伝えてくれと頼んだ。兵隊は安堵したような恰好で挙手の礼をして、「はい、自分は命令を伝えます《と大きな声を張り上げ、血まみれのズボンをひきずりながら立ち去った。

 夕食、全くほしくない。お湯一杯呑んでベッドヘ戻った。日はとっぷり暮れた。夜になって皆己を忘れて、天皇陛下の御心中と御身上を案じた。私も心から、陛下がいとおしいと思った。私はこっそりバルコニーに上って遥かに東天を拝し、両陛下の御安泰を祈り泰り、暫らく黙祷を捧げた。そしてそこら辺りをうろつきまわってコンクリートの空気抜きの上に腰をおろして焼け跡を眺めていた。思いなしか淋しい夜だ。黒い市を通して泉邸脇を帯のように曲った太田川の川面が薄白くみえる。暗い空に真黒な二葉山がぬっと聳え立っている。国亡びて山河あり、ひしひしと迫る敗戦情緒がまのあたりに展開して心細いばかりであった。

   注1大本営 戦時や事変にあたり設置される天皇に直属する最高統帥部。
   註2東条英機 陸軍大将、太平洋戦争闘戦時首相。